翡翠(ヒスイ)は、「パワーストーン」として有名ですが、古代には霊力の高い玉として祭祀に使われたり、各地の首長クラスの特別な人々の首にも飾られ、神の依代や権力のシンボルにもなっていました。
神話で、アマテラス大神の命により高天原から地上に降りた(天孫降臨)といわれる神様に、ニニギノミコトがおられます。漢字では「瓊瓊杵尊」と記します。
このお名前ですが、「瓊」とは「赤い玉」、「青(緑)い玉」、「美しい玉」の総称です。瓊瓊杵尊は「瓊」の字が繰り返されていることから、このような美しい玉をたくさん身に着けた方であることがわかります。実は青い玉は翡翠といわれます。
古代から大切にされてきた緑の翡翠は、一体どこで産出し加工されたのでしょうか? これを探しに行くとあなたも古代史通になり、神話に出て来る瓊の首飾りに出会うことができます。さあ行ってみましょう。
翡翠の産地、新潟県糸魚川
古代における「青色」は緑色も含みます。そして、緑色と赤色はいずれも「生命」と関係しました。緑色は春の木々の若葉を、また赤は血の色を意味します。中でも緑色は縄文時代から特別な色(つまり再生と関連した色)として考えられ、それを体現しているのが翡翠でした。この霊力の高い翡翠の産地は高志の国(越後)、今の新潟県糸魚川です。
日本各地の遺跡から翡翠の玉が出土していますが、その99%以上は糸魚川産であるという報告があります。霊力の高い翡翠の玉がほとんど糸魚川産の石とは驚きですね。
さあ、その産出地にまず行ってみましょう。糸魚川の翡翠原産地は2か所あります。姫川上流の「小滝川ヒスイ峡」と青梅川上流の「橋立ヒスイ峡」です。
翡翠原石がゴロゴロ!小滝川ヒスイ峡
中でも有名なのが小滝川ヒスイ峡です。
小滝川ヒスイ峡は写真中央の山(明星山)裾にあり、そこには川の中に翡翠原石がゴロゴロと転がっています。ここの翡翠はなんと5億年前、カンブリア紀にできたものだそう。つまりアノマロカリスや三葉虫、ピカイアなどが生きていた時代に形成されたのです。ちなみに、生物に「眼」ができたのもこの頃です。
行く途中、ヒスイ峡の傍にある明星山を望む絶景の場所があります。ただし、この道は冬季に一部交通止めになります。
また、ヒスイ峡は国の天然記念物に指定されております。石の持ち帰りはできませんのでご注意ください。
日本で初めて翡翠加工をしたのは、「長者ヶ原遺跡」の人々!
ヒスイ峡には駐車場が完備され、遊歩道も整備されています。
新潟県といえば雪の多いことで有名ですよね。このヒスイ峡の原石が、雪解け水や大雨時の増水によって下流の姫川から日本海沿岸に流され、人々を魅了することになります。
今から5,500年前、縄文時代の人々はこの翡翠を拾い、加工を始めました。日本で初めて翡翠加工を行ったのは、「長者ヶ原遺跡」にいた人々です。ここで本格的な玉作りをし、全国へと供給したのです。
ヒスイが生命を表す「玉」に変化!
面白いことに、ここで加工されたヒスイは縄文時代には「玉」として主に東日本に運ばれます。現在、日本で最も多くこのヒスイの玉が出土しているのは、ここから遠い北海道や青森県といわれます。
また弥生・古墳時代には「勾玉」となって西、あるいは畿内へと運ばれました。ちなみに出雲大社の宝物館にある(命主社から出土した)ヒスイの勾玉も糸魚川産といわれます。
また東日本で翡翠が愛されたのは、この地域に落葉広葉樹林が広がっていたことと関係するようです。秋から冬にかけ、木々の葉が落ちますが、春にはまた緑の若葉が再生するようすが緑色に重ねて考えられたというのです。
ここには住居跡が残っており、一部復元されています。このような住居で、職住一体となって、手加工で大珠を作っていました。
ちょっと意外な「工房」ですね。翡翠は後述のように堅い石なので、当時の人々は時間をかけて徐々に加工していたようです。現在のような加工道具が無い中、根気よく加工をしていた事に驚きます。それだけ玉の製作に情熱をかけていたのですね。何か現在の職人魂にも通じる気がしませんか?
遺跡の隣には「長者ヶ原考古館」があり、翡翠の穴あけ工程など当時の加工の様子、また出土した大珠などが分かりやすく展示してあります。
翡翠は、宝石としては硬さがモース硬度で6.5~7と最低クラスなのですが、壊れにくさ(堅さ)は宝石のなかでもトップクラス。ダイヤモンドをしのぐといわれます。割ろうとしてもなかなか割れないのです。
これだけでも、いかに加工しにくいかお分かりいただけると思いますが、どうやって当時の人々が加工したのか考古館でじっくりと見てください。詳しい説明パネルがあります。ちなみに、穴は竹を使い、硬い粒子をまぶして摩擦であけていたとか。気の遠くなるような作業です。
翡翠ハカセになれる!フォッサマグナミュージアムが面白い!
ところでこの近くにはもう1か所、面白い博物館があります。「フォッサマグナミュージアム」です。
糸魚川には本州を縦断する大断層、糸魚川-静岡構造線が近くにあり、大地をつくる地質が断層の東西で大きく異なります。そのため、この施設では周辺に見られる各種の化石や岩石に関する展示を行っています。また、ここで翡翠の種類や特徴などを詳しく知ることができるのです。
いろんな種類の翡翠原石、加工された大珠や勾玉、翡翠の特性などを見ることができ、鉱物・化石好きには見逃せない場所になっています。
翡翠は緑色だけじゃなかった!?
ところで、翡翠と何度も書きましたが、この翡翠という漢字、もともとは鳥のカワセミの雌雄を意味したものです。カワセミの羽根の色から、ヒスイが「翡翠石」と名付けられたといわれます。
ちなみに、「翡」は橙色、「翠」は緑という意味があります。ちょっと驚かれるかもしれませんが、日本では翡翠は緑色、というのが一般的ですが、実は翡翠には様々な色があるのです。白色、黄色、橙色、赤色、青色、淡紫色、黒色などです。
ミュージアムでは写真のような薄紫色の翡翠も見ることができます。しかし残念ながら、糸魚川からは橙色・赤色系の翡翠は発見されていません。
海岸で古代の姫に出会う~ラベンダービーチで翡翠拾い~
姫川から流れ出た石は日本海へと流れ、さらに富山方面に向かって流れている海流の影響で西に流されます。このため糸魚川から富山方面までの海岸では、打ち上げられた翡翠の石を拾うことができます。
この海岸に「ラベンダービーチ」と名付けられた場所があります。緑色だけでなく、稀に発見される薄紫色の翡翠を拾う事ができる事からラベンダーと名付けられたのです。小滝川ヒスイ峡と違い、ここでは自由に拾えますので、あなたも翡翠探しに挑戦してみては如何でしょうか?
私も大分時間をかけて探し回りましたが、実際にはどれが翡翠なのか中々区別がつき難く、悩んでしまいました。ミュージアムでじっくりと色を覚えてからトライするのが良いかもしれません。また、このビーチの近くにはもう1つのヒスイ加工遺跡である寺地遺跡(青梅町)があります。
ところで、この海岸には写真の像が建てられ、首に翡翠のネックレスをしたお姫様が立っています。実はこの方、大変有名なお姫様なのです。その名は「奴奈川姫(ヌナカワヒメ)」(沼河姫と記述される事もあります)。前記の川、「姫川」もこの姫にちなんだ名前です。奴奈川姫はこのあたり一帯を支配し、翡翠の加工をしていた一族の首長で、かつ巫女であったといわれます。
「古事記」によれば、出雲の大国主命がわざわさ当地に来られ、この姫に結婚を申し込まれたとか。古事記では姫は「賢し女」「麗し女」と記されています。美しく賢い姫でもあったのです。姫を祀った神社は近くにもいくつかあるのですが、この結婚をめぐる逸話を、上越市直江津(五智)にある「居多神社」で詳しく見る事ができます。
ここは昔、越後国の一之宮で、また親鸞聖人(写真の像)が越後に流された時にお参りされた神社としても有名です。大国主命、奴奈川姫、そしてお2人の子供「建御名方命(タケミナカタ)」が祀られています。建御名方命は諏訪神社の御祭神としても有名ですね。
本殿に向かって右手に行くと、大国主命が求婚した時の歌が記されたパネルがあります。
歌をじっくりと味わってみて下さい。「八千矛」と記されているのが大国主命です。
なお、この歌には出てきませんが、大国主命が奴奈川姫に求婚に出かける時に、正妻であった妻の須勢理毘売命(スセリヒメ)が嫉妬したといわれます。大国主が「青い」服を着て出かけようとすると、青がヒスイをイメージさせたため、須勢理毘売命は服を変えるようにいい、しぶしぶ大国主は「赤い」茜色の服に着替えさせられたのだとか……。
男性としては、いやはや……と感嘆するところですが、嫉妬は別として、青(緑)と赤色が出てくるところに、大国主命のイメージに縄文時代とのつながりを感じてしまいます。
高志から出雲へ~出雲に伝わった、高志の玉作りの技術~
さて、大国主命の逸話をたどると面白い事が分かります。まず、出雲の美保関にある「美保神社」です。
恵比須様の総本社として知られている有名な神社です。御祭神に三穂津姫が祀られていますが、元々御本殿には美保須々美(ミホススミ)命が祀られていたという説があります(現在は、境外の祠に祀られています)。「美保」も美保須々美(ミホススミ)命にちなんで名付けられたとか。
美保須々美(ミホススミ)命は、実は「大国主命と奴奈川姫との間に生まれた御子」といわれているのです。また、建御名方命もここでは客社に祀られています。結婚話といい、「出雲と翡翠の産地である高志は古代何らかの関係があった」ことは間違いないでしょう。
実は出雲も玉の産地!
ところで出雲といえば、この地も玉作りで有名です。特に、美肌で有名な「玉造温泉」(写真)のある玉湯町の「玉造遺跡」が知られています。実はここの玉作りの技術や製法は「高志(糸魚川)の技術と同一」といわれます。何らかの交流があったのでしょう。
出雲の玉作りは弥生時代にはじまり、古墳時代に最も栄えました。近くの「花仙山」から出土する緑色のメノウや碧玉などを用いて管玉、勾玉や丸玉を大量に作っていたのです。ここには全国で唯一の「玉作り」の資料館「出雲玉作資料館」もあります。
実は、弥生時代に入ると碧玉やメノウあるいは大陸からのガラス玉に押されて、縄文時代以来欠かせなかった翡翠の玉の需要はやや減少したとされます。但し、メノウを使用するにせよ、緑色にこだわった使い方をされている事には変わりありませんし、翡翠製の勾玉の霊力は他の玉とはくらべものにならなかったといわれます。
出雲・花仙山には、パワースポット「願い石」のある玉作湯神社が!
その、出雲・花仙山にあるのが「玉作湯神社」です。神社の神紋は独特で、「二重亀甲紋」の中に「丸玉・菅玉・勾玉」が描かれています。実は、神社境内は花仙山周辺で最も古い玉作り遺跡なのです。本殿に登る階段の途中に丸みを帯びた三角屋根の建物がありますが、ここは出雲玉造跡出土品の収蔵庫になっています。
さらに神社内には、パワースポットとして有名な「願い石」もあります。なんでも願いが叶うとされ、若い女性に人気とか。出雲は縁結びの地ですので、若い女性にとっては外せない場所のようです。ご覧のように、中央にある石が「自然石なのに丸い」という事で、当時の玉作りに従事した人たちに大事にされてきたといわれます。
また、神社周辺の場所は、新任の出雲国造が大和朝廷に賀詞をする(出雲国造神賀詞)前後に禊をした場所ともいわれます(別の場所の水で禊ぎをしたとの説もあります)。禊をし、ここで作った玉を朝廷に献上したのです。
玉の名前は、「御沐忌玉(みそぎのいみだま)」あるいは「美保岐玉(みほぎだま)」。この玉を身に着けると禊ぎをしたと同様に身も心も清らかになるという特別な玉でした。
神様の首飾りか?~美保岐玉~
出雲の玉作り技術を継承して復元された、この「美保岐玉」を展示している場所があります。玉造温泉の近くにある「いずもまがたまの里伝承館」さんと出雲大社の大鳥居の目の前にある「めのや」さんです。復元したのは、いづもまがたまの里伝承館で、めのやさんはその姉妹店になります。
復元品の緑の石は翡翠ではなくメノウが使用されていますが、写真を見て何か思いだしませんか? そうです。最初に紹介した、瓊瓊杵尊の「瓊」です。
古代、神様方の首回りを飾っていたのはこのようなものだったのでしょう。美保岐玉の深い緑と赤い色使いから、神聖や荘厳さが直接伝わってきます。古代の人ならず、現代の我々が見ても、感動してしまいます。霊力のある玉として古代の人々が玉を大事にした理由も納得できますね。
みなさんもぜひ一度ご覧になり、古代の人々の精神・感性に触れてみてください。なお、小さい美保岐玉は出雲大社で健康長寿のお守りのブレスレットとして販売されています。
色彩変化と古代の政治体制~翡翠とともに消えた縄文の感性~
縄文時代から古墳時代の5世紀までは、翡翠を中心とする緑~青系統の玉がこの様に霊力の高い玉として使われ、古墳にも葬られていました。
しかし、5~6世紀になると暖色系の黄や朱色のガラスビーズが登場し、一挙に有力者を飾る色がカラフルに変化します。また金銅製の冠や飾履など、光輝く物が権力者の威信財として使われ、勾玉や首飾りも姿を消すことになります。これは、大陸文化や渡来人の影響ですが、この変化と同時に「見せる」ことで権威を示した翡翠の伝統が消え、宝石は単なる財産に変化してしまったようです。
美しい翡翠、その歴史をたどると、我々の祖先である縄文人の考え方や感覚が体感できるとともに、歴史の変化が感じとれます。
ところで、2016年、「日本国の石」として翡翠が選定されました。日本鉱物科学会が選定したものです。日本が世界に先駆けて利用してきた石、この緑色の翡翠を思い浮かべながら旅をすると、教科書には出てこない古代の人々のこだわりや考え方を知り、自分の中にある古代人のDNAを再発見できるはずです。そしてなにより、あなたにパワーが授かるはずです。
さあ糸魚川や出雲に出かけましょう。