古代の東北というと“縄文”を思い浮かべる事が多いと思いますが、縄文時代以降の東北というと、平泉の藤原氏の世界に突然ワープしてしまうのではないでしょうか?
実際、平泉の藤原氏が登場するまでの間、東北は都の人々にとっては未知の場所でした。このような原因の1つは“道路”が整備されていなかった事です。
朝廷が白村江の戦いで敗れた(663年)後、律令体制を強化し、東の未開地域を“東夷”、そこに住む人々を“蝦夷(エミシ)”として差別し、支配したことに起因します。
このような中で東北の歴史が明けてくるのですが、この歴史の転機は、蝦夷のリーダー“アテルイ”と朝廷側の将軍“坂上田村麻呂”の戦いでした。
2人の攻防や城跡をたどりながら東北の歴史の幕開け過程を見て行きましょう。日本の歴史に東北が深く関係していた事、また陰陽師の存在や、陸奥守・征夷代将軍になった人物達の影響の大きさに驚かれるはずです。
陸奥と出羽の国におかれた城柵
行政区画:東北歴史博物館
7世紀末頃に畿内と各地を結ぶ七つの道が整備(五畿七道)されましたが、七道の1つ東北への道“東山道”はこの時点でも東北を縦貫していませんでした。
大和朝廷では東北を大雑把に「出羽(でわ)」と「陸奥(むつ)」の2つに分けて考えていました。陸奥は道奥(みちのく)、つまり“東山道の最奥”という意味で、出羽とは“出端(いでは)”、つまり当時の越国の北の突端、という意味だったのです。
陸奥国が設置されたのは大化の改新後まもなく(649~653年頃)で、出羽国が成立したのは716年です。両国には東北支配のために特別の城柵、多賀城と秋田城(出羽柵)が設けられていました。
東北経営の中心は多賀城~大宰府に匹敵する施設で、大伴家持もいた!
まず、朝廷側の東北支配の拠点であった、この“城(城柵)”についてみてみましょう。これら城の周囲には、移民が送られ開拓が行われました。
城はこれら移民や帰順した蝦夷の保護管理、また他の蝦夷などとの交易や支配地域からの税金(租・庸・調)収受なども大きな役目でした。現代でいえば、県庁と軍事基地を併せ持った施設という事になるでしょう。
多賀城の構造:東北歴史博物館
中でも東北経営の中心は多賀城でした。多賀城は仙台平野を一望できる丘の上にあります。高さ4~5mの築地(ついじ)塀に囲まれ、全体は一辺が約900mの歪んだ矩形をし、東西南北それぞれに門があり、中央にはさらに築地塀でかこまれた政庁がありました。
秋田城復元東門
多賀城では築地塀や門は復元されていませんが、秋田城跡で復元されています。ずいぶんとがっちりとした作りだったのですね。
この多賀城に陸奥国の国府がおかれ、国主の“陸奥守”や“按察使(陸奥と出羽の両国の行政を監督)”がいました。また奈良時代には城柵を守る兵士を管轄する“鎮守府”も置かれていたのです。
万葉集で有名な、あの“大伴家持”も陸奥按察使鎮守府将軍としてここに赴任していました。まさにこの城は東北経営の要で、九州の“大宰府に匹敵する重要施設”だったのです。
多賀城政庁跡
政庁では各種の儀式がおこなわれ、政庁の周りにはいろいろな役所の建物が配置されていました。政庁の真ん中には正殿がありました。
多賀城では東西の門を通して租税などの物流の出入りが行われていたようで、東門は塩釜方面につながり、西門は傍を流れる川に繋がっています。
752年に奈良東大寺で“大仏開眼供養”が行われていますが、実は、東大寺の大仏には“陸奥国から出土した黄金(749年に陸奥守が献上)が使われ”ていました。
この黄金を産出したのは宮城県涌谷町で、それまで、日本では黄金が産出していなかったのです。このため、同じ年に多賀城以北の地域から税(調・庸)として“黄金”を納める事が決められています。
蝦夷の反乱~アテルイと坂上田村麻呂
このように順調にすすめられた東北経営ですが、774年以降、蝦夷の反乱(反乱というのも朝廷側の見方ですが)が続きます。縄文時代には大きな戦いは行われなかったといわれます。
この縄文の文化を色濃く受け継いでいるはずの蝦夷の人々が朝廷側に反旗を翻すのですから、余程の理由があったと思われます。いままでの生活圏に多賀城のような城柵が突然作られ、多数の移民が送られてくれば何らかの軋轢がないはずはありませんね……。
この反乱のリーダーとして有名なのが、胆沢・江刺地方を根城にしていた“アテルイ(阿弖流為)”です。朝廷側は789年に5万2,800人もの大軍勢を前記の多賀城に集め、ここから胆沢に大攻勢をかけましたが、北上川の東岸でアテルイ軍に敗れました。
アテルイ古戦場(奥州市水沢区周辺)
写真はその古戦場付近で、右から傾斜している山裾の当たりで戦われたようです。朝廷軍は写真の川(北上川支流)の左岸側に陣を布いたのは良いのですが、なんと“1ヶ月”も動かなかったといわれます。
しびれを切らせた桓武天皇に叱責され、ようやく重い腰を上げて川を渡り攻め込んだところ、アテルイ軍は山側に逃げます。実は、これが罠でした。勢いついた朝廷軍が追いかけると両サイドから挟み撃ちにされ、逃げ道は川でふさがれるというありさまで、溺死者が多数でたといわれます。
ちなみにこの写真は、平泉中尊寺の弁慶堂脇から撮影したもので、この古戦場の近くに、弁慶が仁王立ちのまま亡くなったといわれる場所もあります。
アテルイを知ろう~奥州市埋蔵文化財センター
奥州市埋蔵文化財調査センター
アテルイについての資料は現在ほとんど残っていませんが、奥州市埋蔵文化財調査センターで関連する展示がされていますので行ってみましょう。
アテルイ像:奥州市埋蔵文化財調査センター
センターの中に入ると1階に、アテルイ像(写真)が出迎えてくれます。ちょっとムサクルシイ(失礼!)お姿のようですが、蝦夷は毛深い、などという説がありますので、そのイメージで作られたものなのでしょう。
展示場入口:奥州市埋蔵文化財調査センター
2階展示場では甲冑を着た朝廷軍の兵士が入口を守っています。
アテルイ肖像:奥州市埋蔵文化財調査センター
中には、アテルイの肖像のイメージが展示されていました。1階入口に飾ってあった像の顔とも違い、こちらの顔は一層毛深く、まさに毛人のイメージです。
ちなみに“蝦夷”と書く以前は“毛人”と書いたようですので、そのものズバリですが、さて本物は果たしてどのような方だったのでしょう?
冑:奥州市埋蔵文化財調査センター
蝦夷が使用していた冑(桃の実形)も展示されていました。これは7世紀中頃のものですので、アテルイ軍が使用したものではありません。しかしこんな立派な冑を蝦夷が入手していたのには一寸吃驚します。1階で出迎えてくれたアテルイ像とのギャップを感じてしまいます。
また、写真がないのが残念ですが、蝦夷が使っていた刀に“蕨手刀(わらびてとう)”があります。手で握る所がワラビのように少し曲がった形状の刀です。実は当時の刀は真っすぐな“直刀”だったのですが、蕨手刀の影響で現在のような曲線美が美しい日本刀が完成したともいわれます。
蝦夷は、北海道北部や朝鮮半島北部の国と独自に交易をし、北方から鉄器文化も伝播していたとの説もありますので、冑や蕨手刀などはこの説を示す例、あるいは冑だけは朝廷側との交流で入手したものなのかもしれません。
首飾り:奥州市埋蔵文化財調査センター
ところで、展示物の中に、蝦夷のお墓から出土した“首飾り”がありました。神話にも出て来る八尺瓊勾玉や美保岐玉(「TRIP’S」記事参照)を彷彿とさせる首飾りです。また色ガラスのトンボ玉も出土しており、これは蝦夷の人々が古代オリエントなど大陸との交易を行っていた証といわれます。
日本書紀には、“東北に「日高見国」という国があり、勇敢な人がいて、土地も広く肥沃であった”と記載されています。これらの出土品を見ていると、まさに古代の東北は豊かで強い国であった事が実感できます。
毛人や蝦夷と差別的に呼んだのは、朝廷側の意図的な試みだったのでしょう。個人的には1階のアテルイ像も毛人や蝦夷のイメージが反映されているようにも感じてしまうのですがが如何でしょうか……?
ところで、前記アテルイとの戦いの現場でもあった「北上川」は、前述の“日高見”に由来している名前といわれます。地元のお酒にもこの名前がつけられたものがあります。
さて、話を戻しますが、朝廷軍が大敗した後に登場したのが“坂上田村麻呂”です。
最初は征夷副将軍として、その後、征夷大将軍兼按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍として、まさに全権を把握した上でアテルイ軍と戦いはじめます(ちなみに征夷大将軍という名前は徳川時代まで使われますが、この征夷とは蝦夷を征伐するという意味です)。
胆沢城跡
また攻めるだけでなく、アテルイ達の勢力範囲に城柵(胆沢城)を築きはじめます(802年に完成)。奥州埋蔵文化財調査センターのそばにその城跡があります(残念ながら当時の姿はほとんど復元されていません)。
胆沢城外郭南門模型:奥州市埋蔵文化財調査センター
ここは、多賀城同様に築地塀で囲まれ、外郭南門は瓦葺きの2階建て、柱は赤塗りであったといわれます。前述の秋田城の築地塀の門が2階建てになったものと思えば良いのですが、結構な迫力の建物であった事がわかります。
胆沢城は東京ドームが9つ入るというずいぶんと広大な城でしたが、後日、ここに鎮守府がおかれ150年も機能しました。この城を建てた理由の1つは、戦うだけでなく大きな城で蝦夷を精神的に威圧し、順々と納得させて帰順させようという戦略があったように思われます。
結局、アテルイは部下500名と一緒に投降しました(802年)が、展示場には映像コーナがあり、築城の様子を見たアテルイ側の反応、迷いなどが面白く紹介されていますので、ぜひこちらもご覧ください。
さて、戦いを止めたアテルイですが、その身柄はを京に送られ、最終的には斬首されてしまいます。坂上田村麻呂はアテルイの助命を請願したともいわれますが、聞き入れられず、無残な結末になってしまいました。
このアテルイと坂上田村麻呂の戦いはちょうど、「平安京」へ都を移した前後の出来事です。胆沢城を見ながら戦いを止めたアテルイ、また戦わずに済む戦略も採用した坂上田村麻呂、まさに大人の戦いという気がします。
最先端の甲冑~桓武天皇が作らせた蝦夷征伐用の甲冑
秋田城跡歴史資料館
ところで、記録によると桓武天皇は蝦夷征伐用の甲冑として諸国に“革製の甲冑”を2,000領作らせました。皮を小さな板状にして漆で固め、これをつなげて作った甲冑と推定されています。これは当時の最先端品で、秋田城跡でこれが出土しました。
革製甲冑:秋田城跡歴史資料館
秋田城跡歴史資料館に復元された甲冑が展示されています。革製で軽く、坂上田村麻呂の朝廷軍もこの最新式の甲冑を用いて敏捷なアテルイ軍と戦ったのかもしれません。
「平将門の首」伝説はアテルイの首伝説に由来?
悪路王:奥州市埋蔵文化財調査センター
ところで、みなさん「悪路王」というのを聞いたことがありませんか? “アテルイの化身”とされ、岩屋に棲む賊の赤頭と一緒に村々を荒らしまわるので坂上田村麻呂に征伐されたといわれる架空の人物です。江戸時代にこの“首”像を造った人がいて、茨城の鹿島神宮に収めたといわれます。
“首”というと平将門の首の伝説が有名ですが、実はアテルイが斬首された時に、その首が平泉(の達谷窟:たっこくのいわや)に飛んできて悪路王という鬼になったとの伝説もあるのです。
伝説に近いお話しですが、“平将門の首が京都から飛んできた話”もこのアテルイの伝説に由来しているとの説もあるとか……。奥州埋蔵文化財調査センターにはこの悪路王の首が展示してありました。
役人の生活~出勤簿や成績表もあった
さてここで少し話題を変え、城柵での人々の暮らしを紹介しましょう。ここからは、多賀城跡の近くの「東北歴史民俗資料館」、秋田城跡の傍にある「秋田城跡歴史資料館」や前記の奥州市埋蔵文化財調査センターでの展示物を整理して紹介します。
城柵に勤める役人は、蝦夷を供応し、税金や城柵の管理、また近くの農民や服従した蝦夷の保護・管理などと忙しい生活を送っていました。これらの仕事には膨大な記録が必要ですが、これらに用いられたのは木簡や紙でした。木簡は木を削れば文字の訂正などが楽にできます。
役人:東北歴史博物館
写真(東北歴史民俗資料館)は、刀子(ナイフのようなもの)で木簡の書き直す部分を削っているお役人の姿です。また机の上(左手奥)におかれているのは、文房具の硯、墨、筆です。黒い細長い墨の下にある丸いのが硯です。現代のように長方形ではなく、丸い形の硯が当時使われていました。
木簡:秋田城跡歴史資料館
また木簡は、城柵に送られてくる品物(税金)の荷札やその照合等に使われ(多賀城跡・胆沢城跡出土)、写真(秋田城跡)のように、労役に駆り出された住民の出勤届けとしても使われました。さらに、役人自身の“勤務評定(人事考課)”なども木簡につけていたようです。
漆紙文書:秋田城跡歴史資料館
一方、紙はまだ貴重品で、使い終わった紙は漆容器の蓋代わりに再利用して漆の乾燥を防止していました。紙に漆が染み込んで保存性が良くなる事で、多くの紙文書が残されています。
これらを“漆紙文書”といいますが、写真(秋田城出土品)下のような出土状況ですので、このままではどんな事が書かれていたのか分かりません。文字は赤外線カメラで撮影する事で解読されました。写真上が解読された文字です。
胆沢城跡から出土した漆紙文書には、当時の暦「具注歴」や孔子の教えを説いた古文孝経、また兵士の“欠勤届”といわれるものなども見つかっています。
役人の食事
上級役人食事:奥州市埋蔵文化財調査センター
ところで昔の人はどんな食事をとっていたのでしょう? 胆沢城での食事例が奥州市市埋蔵文化財調査センターで展示されています。
まずは、将軍の食事をみてみましょう。上の左から、鮎の塩焼きに鹿肉のなます、さといも……随分豪華な食事ですね。坂上田村麻呂もこんな食事をしていたのでしょう。
下級役人食事:奥州市埋蔵文化財調査センター
一方、下級役人は、玄米ご飯、ヒジキの煮物、塩というメニューでした。随分と差がありますね。また、一般の庶民は、ご飯が少し入ったおかゆや玄米が主食で、これにお湯でひたした青菜や山菜に塩といった食事といわれます。
役人や兵士たちは城に集められた“税金としての食材”をもとに食事が調理されたため、庶民よりは豪華な食事をしていました。また当時の食事回数は、貴族や兵士は朝晩の2回、兵士は戦いがある時に3回とったといわれています。
しかし考えてみれば、前述のように58,000人以上の軍勢を1ヶ月も動かさずにいたのは全く兵糧の無駄ですね。実はこの無駄をしていた原因と思われる事情があったようです。
陰陽師も役所にいた~朝廷軍敗因の原因は陰陽師?
胆沢城機構図:奥州市埋蔵文化財調査センター
さきほど、漆紙文書で暦が出てきたと紹介しましたが、当時の暦には吉や凶が書かれ、貴族は風呂に入る日、爪を切る日などもこの暦に従って行っていました。また役所の仕事も全てこの暦に従って行われていたとか。
随分とオマジナイが活躍していたようですが、実は城柵の役人を調べますと、胆沢城には1名の“陰陽師”がいた事が分かっています(写真中央)。組織内にも陰陽師がいるとは面白いですね。
坂上田村麻呂が登場する前、朝廷軍は前述のようにアテルイ軍よりも何倍もの大軍を擁しながら直ぐに攻めず、桓武天皇から叱責されました。考えてみれば、これは陰陽師の占いで指揮をしていた事に原因があったのではないでしょうか?
真実は不明ですが、坂上田村麻呂の素早い行動との差異は、このような陰陽師の存在とその影響度の大きさを抜きには考えられない気がします。逆に言えば、坂上田村麻呂は陰陽師の影響を受けない、合理的な考えの持ち主であったようです。
ちなみに坂上氏は渡来系の氏族、蘇我氏と関係が深かった東漢(やまとのあや)氏の出で、坂上田村麻呂は仏教に熱心に帰依し、京都の清水寺の建立に関係しています。
その後の東北
さてアテルイと坂上田村麻呂との戦い後、蝦夷の帰順が進みます。坂上田村麻呂は大納言にまで出世し、死後も平安京を守護するように埋葬されたといわれます。
また、東北も多賀城から奥六郡(岩手県南から盛岡の北までの地域)を通り糟部(一戸~九戸方面)へ行く交易の道が開け、東北から都には黄金の他に、熊などの動物の毛皮、馬(良馬として人気が高かった)や鷲の羽根などが送られました。
特に鷲の羽根は矢羽根として高い評価を得ていたといわれます。この奥州六郡、つまり交易ルートを10世紀~11世紀前半に握ったのは“蝦夷出身の安倍氏”でした。
平泉金色堂
この安倍氏はその後滅びます(1065年)が、残された遺児が奥州平泉の祖、“藤原清衡”です。その子孫の“秀衡”は陸奥守に任官し、以降、源頼朝に滅ぼされるまで黄金の都市、平泉(写真:中尊寺)が発展します。
ところで、安倍氏を滅ぼした時の陸奥守は中央から来た軍事貴族の“源氏(源頼義)”でした。陸奥守となった事で東国の武士団との関係ができ、以後、武士の頭領としての地位をその後確立していったのです。
また後日、子孫の“源頼朝”が征夷大将軍に任じられましたが、これは坂上田村麻呂の吉運にちなんで与えられたといわれます。以後、征夷代将軍は武士の頭領の象徴となりますが、この頼朝が義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼす事になるのは歴史の偶然とは思えない気がします。
アテルイ以来、蝦夷の子孫が戦いに負ける歴史が繰り返されましたが、逆にいえば陸奥国の国守、陸奥守が日本歴史に果たした重要性、また征夷代将軍の地位が特別のものとなった事で日本歴史に東北が欠かせない地域であった事が分かります。道の奥、陸奥は当時の“フロンティア”だったのです。
今回、奥州市埋蔵文化財調査センターの展示を中心にご紹介しましたが、東北を理解するには「東北歴史博物館」もお勧めです。
ここには平泉中尊寺金色堂の“内陣柱”が復元展示されており、そのすばらしさ、奥州藤原氏の財力の高さがよく分かります。また縄文時代以降も東北が日本歴史に大きな役割を果たしてきた事がよく理解できるはずです。