古代出雲は神話の国。その代表神といえば素戔嗚尊(スサノオノミコト)と大国主命(オオクニヌシノミコト)です。素戔嗚尊が高天原を追放され、出雲に来て八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したのは有名なお話しですね。この素戔嗚尊の娘婿で、出雲大社に祀られているのが大国主大神です。今回は、この大国主命のお話しからスタートしましょう。
大国主命(大神)は、国土を開拓して国造りをされましたが、最後に国譲りされた神様として知らない日本人はいません。この大国主命の別名を「八千矛神(ヤチホコ)」といいます。日本書紀によれば、「大国主命は「広矛」と呼ばれる巨大な矛を杖のように突きながら国の平定を成し遂げた」と記されているのです。古事記には八千矛神が詠んだという歌も載せられています。
矛は槍や薙刀の祖先と考えられる武器ですが、八千(たくさん)の矛とは意味深な名前ですね。剣ではなく、なぜ矛なのかという疑問もありますが、実は「出雲は銅剣と銅鐸が日本で最も多く出土している場所」なのです。なぜこのように大量に出土しているのでしょう? 大国主神が国土を平定するのに使われたのでしょうか?
さあ、現地に行って、この謎に挑戦してみませんか? 神話の世界との結びつきがきっと感じられるはずです。
大量が銅鐸に出土!加茂岩倉遺跡へ
まず、大量の銅鐸が出土した事で知られる「加茂岩倉遺跡」に行ってみましょう。山中にあるので、入口の駐車場に車を置き、そこから細い道を登って下さい。
駐車場の脇に案内の看板がありますので、まずこれを確認するといいでしょう。寂しい道ですが、少し登りますと、道の中央に銅鐸のレプリカが見えてきます。これが目印で、もうひと踏ん張りすれば遺跡にたどりつきます。しばらくすると右手の上方に遺跡が見えて来るはずです。
ここは農道の法面工事のため、パワーショベルで斜面を削っていた時に発見された遺跡です。ここから国内最多となる39個もの銅鐸が発見されました。遺跡では、写真のように発掘当時の様子が復元されています。
山中に銅鐸、一体何のため……?
面白いのは、写真のように銅鐸が大小組み合わさって「入れ子」になって埋められていた事です。また埋め方にもルールがあり、銅鐸の左右に飛び出した「鰭(ヒレ)」のような帯状の部位を垂直にして横向きに埋めていたといわれます。どんな意味があったのでしょうか?
銅鐸のルーツは中国や朝鮮半島で家畜につけられていた小さな鈴であったようです。弥生時代前期に日本に伝わり、神様を招くための音を出す祭器として共同体内で共有されて、集落内外の神聖な場所に埋葬されたともいわれます。
遺跡のある場所は山の中です。何故この場所に埋めたのか不思議ですが、この遺跡の住所を調べると納得できます。住所は遺跡の名前にもある「岩倉」です。神様のおられる場所である「磐座」に通ずる名前で、ここが神聖な場所であった事がうかがえます。
遺跡のすぐ近くに、「加茂岩倉遺跡ガイダンス」があります。ガイダンス内では出土した多数の銅鐸のレプリカが展示され、どんな銅鐸が出土したのか等、詳細を知る事ができます。出土した銅鐸にはいろいろな絵が記されていました。
トンボやカメ、鹿など、当時の弥生人は農耕だけでなく、漁業や狩猟とも関わりが深かった事が分かります。また人面が書かれたものもあり、この絵は非常にユーモラスです。製作者のイタズラ書きなのでしょうか?
銅鐸は音で神様を招く「鳴らす銅鐸」として用いられていたのですが、ガイダンス内には写真のように銅鐸をどのように鳴らしていたかが分かる写真もあります。組んだ木に吊るし、銅鐸内部にある舌(ゼツ)で内側から撞いて音を出していたようです。
銅剣が大量に出土!荒神谷遺跡へ
権威もコメント「わからない」!?
加茂岩倉遺跡からひと山超えた所にあるのが「荒神谷遺跡」です。この遺跡からは、なんと358本もの銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が、埋められたままの姿で出土しました。特に、銅鐸と銅矛が同じ場所で出土したのは、日本ではここが初めてです。これらの出土品はすべて国宝に指定されています。
また、出土した銅剣の本数は、当時、全国で出土していた銅剣の総本数を上回っていました。その数の多さに、弥生青銅器研究の権威も「わからない……」とつぶやいたといわれます。八千矛との関係はあるのでしょうか? また、誰が 何のためにここに埋めたのでしょうか?
荒神谷遺跡はこのように、小さな谷間の斜面にあります。
左右2つの場所が出土場所ですが、向かって左手から大量の銅剣が、右手から銅鐸と銅矛が出土しました。少し拡大してみると良く分かりますが、銅剣は4列に配置されていました。
剣の刃が垂直に立てられ、各々、横向きに整然と並べられ、埋められたのです。
弥生時代の戦いは、まず弓矢で射かけ、剣でとどめを「刺す」方式だったといわれます。九州北部では銅剣が突き刺さった人骨などが出ています。しかしここから出土した銅剣は先端が鋭くなく、丸みを帯び幅広で、実践向きではない形式のものです。又、今まで出雲平野周辺で、戦いを思わせる跡は発見されていません。
さらに358本の中で、8本の銅剣は全面に水銀朱が塗られ、赤い色をしていたと推定されています。このような点から、銅剣(や銅矛)も銅鐸同様に何らかの祭器であったと推定されています。
現在でも修験者が行う「火渡り」の儀式では、まず儀式の場所の四隅を刀で切り、「清める」ことが行われていますが、当時も儀式前に儀式場所を剣で清めたり、剣と剣を打ち鳴らして清めたのかもしれません。しかし、それにしても大量の銅剣が出土したものです。権威者が「わからない……」とコメントしたのも同感です。
ところで、弥生時代の青銅器ですが、銅鐸は近畿地方を中心に、銅剣や銅矛は九州北部を中心に分布して、各々は別々の文化圏に属している、というのが従来の考えでした。この遺跡から銅鐸と銅矛が一緒に出土したことでその説が見直され、出雲でも銅剣が生産されていたと考えられるようになったのです。
ちなみに、銅鐸や銅剣などの青銅器は銅、錫(すず)、と鉛の合金でつくられます。弥生時代には、これらの材料の大半は中国や朝鮮からの輸入品でした。なぜ、輸入でしか手に入れられない材料を苦労して手にいれてまで、国内で作る必要があったのでしょうか? この理由の一端を、遺跡に隣接する「荒神谷博物館」で見る事ができます。
光り輝く青銅器!荒神谷博物館
まず博物館の入口ホールに注目してください。銅剣・銅鐸・銅矛の復元品(摸鋳品といいます)が出迎えてくれます。
光り輝いていますね。これが、作られた当時の姿なのです。弥生時代の人々は、光り輝く青銅器に驚くとともに、その神秘性にも心を動かされたに違いありません。実用品から「見る道具」、つまり祭器へと変質していったのにはこのような事も理由であったはずです。なお博物館では、遺跡発掘のドキュメントなども見られ、参考資料も豊富に販売されています。
ちなみに荒神谷遺跡のある場所の住所は、「神庭(カンバ)西谷(サイダニ)」でした。カンバは神祭りの場所を意味する言葉で、サイダニとは邪霊を遮る谷(塞谷)という意味にも通じます。また荒神谷遺跡のある場所と加茂岩倉遺跡のある場所は道でつながっていたという話もあり、ここが同じ共同体に関係した神祭りの場所であった可能性も考えられます。
なぜ美しい青銅器を地中へ……?
しかし、これら青銅器を何故、地中に埋めたのでしょうか? 実は、銅剣や銅鐸を埋める事は北部九州でも行われ、その埋め方は全国共通しているといわれます。従って、単に隠した、あるいは捨てたという事では理解できません。また地中に埋めると錆びが進行し輝きも早く失われると思われるのですが、意識的に埋められたのは間違いないようです。
また、各地で青銅器を埋められていたにせよ、これだけの数を共同体のお祭りで一挙に用いるとは考え難い事です。大量の青銅器を埋めた理由は未だ分かっていないのです。
ところで、面白い事に弥生時代後期、出雲では全国に先駆けて青銅器が使われなくなります。何故でしょう? ちなみに、次の古墳時代になると、輝く物としては全国的に鏡が使われます。また剣は鉄製になります。特に、金銀で飾られた刀(飾大刀)は祭器としてではなく、豪族の権威を象徴する、ランクの高い「装身具」として、全国で使われるようになります。
何故消えた? 出雲独自の古墳、西谷墳墓群
さらに弥生時代、出雲独自の古墳として「四隅突出型墳丘墓」がありました。
西谷墳墓群がその代表例です。写真からもわかるように、古墳の四隅が舌のように伸びているという特徴があります。
これは卑弥呼の時代の古墳として有名なのですが、古墳時代に出雲では造られなくなります。一体なぜ消えてしまったのでしょう?
ヒントは、四隅突出型墳丘墓が造られなくなると、代わりに大和政権を代表する前方後円墳が出雲に出現したこと。このように考えると何か思い浮かびませんか? そう「国譲り」です。
もう一度、日本書紀を紐解いてみましょう。すると、大国主命は国譲りをするに当たり、「『天孫がもしこの矛(広矛のこと)を用い国を治められれば、かならず平安にお治めになる事ができましょう』と言って、高天原の使者に矛を奉った」と記されているのです。つまり、支配者としての象徴、武力を象徴する矛を天孫族に渡したのです。
国譲りをしたことで、大国主命(八千矛神)から天照大神へと主たる神様が変わり、祭器や権威を象徴する道具がここで大きく変化したようにも見えます。こう考えると、かつて大事な祭器であった大量の青銅器(銅剣・銅矛・銅鐸)を集め、神聖な場所に大事に埋めたという事が考えられるはずです。
ちなみに、加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡のそばには斐伊川が流れ、その下流側に四隅突出型墳丘墓の代表例である西谷墳墓群があります。出雲の王様の墓とこれら遺跡が川でつながっているのは偶然でしょうか? さらに「斐伊川は素戔嗚命が退治した八岐大蛇の正体」という説もあるのです。
これは圧巻、本物がここに! 県立古代出雲歴史博物館
如何でしょう。出雲の国譲り神話と遺跡からの出土品が結びついてきたように思われませんか? これまでの遺跡からの出土品の本物は、出雲大社の隣にある「島根県立古代出雲歴史博物館」に展示されています。
ちなみにこれらは、正式には「文化庁所蔵、島根県立古代出雲歴史博物館保管」品といいます。写真のように大量の光り輝く銅剣(模鋳品)が一同に展示されている光景は圧巻です。こんな光り輝いていた銅剣を地面に埋める時、当時の人々はどんな感情で作業したのでしょうか?
また、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸も展示されています。写真の銅鐸にはトンボの絵柄が描かれていますね。絵にはどんな意味があったのでしょう?
古代、日本を秋津洲(アキツシマ)と呼んだ事がありました。秋津とはトンボの事ですが、農耕により稲穂が実った中にトンボが飛び回る光景が目に浮かんできませんか? 国譲り前の出雲は、このような平和な国であったのかもしれません。
銅剣・銅鐸など、国内で最多の出土数を誇る出雲の遺跡。ここは、国譲り神話のロマンが体感できる場所です。ぜひ、あなたの眼・感性で謎の多い出雲の古代史を紐解いて下さい。荒神谷博物館から遺跡への道には「古代蓮」も咲いていて綺麗ですよ。