僧侶なのに愛妻家だった偉人・親鸞の人生ドラマを体験する
日本

寺院数約2万ヶ寺、信者数1,250万人ともいわれる日本最大の宗教集団、浄土真宗。宗祖の親鸞聖人は日本史に残る偉人の1人ですが、実は親鸞聖人は、当時の仏教の戒律で禁じられていた女犯戒(女性との交わりを禁じた戒律)を破り、妻帯していたのです。

戒律を破った”破戒坊主”であった親鸞聖人がなぜこのような最大宗派を興す事ができたのでしょうか? これをたどってゆくと人生最大の苦難であった越後(新潟県上越市)への”流罪”にたどりつきます。

破戒坊主から立ち上がった聖人の足取りをたどり、聖人の人生ドラマを体験しにゆきましょう。偉人の意外な面に触れあう事ができます。

流罪の地、越後(上越市)。ここが僧としての原点

京都にいた親鸞が流罪になったのは、越後でした。そもそも流罪の原因は、師であった法然上人と高弟八人が連座して流罪となった事がきっかけでした(承元の法難1207年:念仏を唱える事で救われるとする浄土宗が念仏停止とされた)。

当時、親鸞は法然に師事して6年目で、高弟ではなく、弟子としての序列も中程度だったのですが、なんと流罪犯に加えられてしまったのです。

この理由については様々な見方がありますが、親鸞が僧にもかかわらず妻帯していた事、またそれを公言していた事が関係しているのではないかとの説があります。

親鸞聖人上陸場所

いずれにせよ、京都から流され、上陸したのが新潟県上越市の「居多ヶ浜」です。時期は2月から3月頃といわれます。

日本海は夏には波が静かですが、冬には荒れる海です。豪雪地でもあるこの地、しかも冬に到着とは、かなり厳しい処置でした。この居多ヶ浜には親鸞聖人の上陸を記念した碑が建てられています。

説明板と石碑

親鸞聖人は居多ヶ浜近くの「五智国分寺」境内に草庵(竹ノ内草庵)を構えて生活を始めます(写真奥の本堂横に草庵があります)。

五智国分寺:正面奥が本堂、その右手に竹ノ内草庵

実は僧は流罪になるときには、一度、還俗させてから流罪になるという決まりがありました(大化の改新の”僧尼令“で決められている)。従って流罪になった親鸞聖人はもう僧ではなく、還俗させられ、名前も”藤井善信(ふじいよしざね)”という名付けられました。

この状態は後日、”僧にあらず、俗にあらず”と「非僧非俗」の立場として記されています。ちなみに、法然上人に弟子入りしてから4年目に善信(ぜんしん)という法名を授かっていますのでこの名前をもじって”よしざね”になったのでしょう。

ところで流罪となった時に聖人は既に妻帯していました。妻帯の時期については諸説あるのですが、いずれにせよ、越後で2人揃って苦労をともにする生活が始まった事になります。

お相手は”恵心尼”という方で、三善家という中級貴族の出なのですが、三善家は親鸞聖人よりも早く法然上人に帰依していたといわれます。お2人については、居多ヶ浜の石碑の左手にある「見真堂」やその横の「居多ヶ浜記念堂」にゆくと分かりますので行ってみましょう。

お互いに観音様の生まれ変わりと思っていた夫婦

聖人の家系は藤原北家の流れを引く日野氏という有力貴族であったのですが、この当時は没落し下級貴族になっていました。親鸞聖人は9歳の時に父と3人の弟とともに出家し、比叡山の僧になります。僧といっても修行僧ではなく”堂僧”でした。

堂僧は修行と学問に専念するのではなく、修行僧の世話をし、お堂に献花や灯明を点す世話係です。僧としてのスタートし点から、本流からはずれたアウトサイダーだったのです。聖人の人生が既にここに暗示されていた様にも思われます。

見真堂

堂僧として務めていた聖人は29歳の時に比叡山を下山し、京都烏山の六角堂に参籠します。参籠とは、何日も寺社に籠もり神仏を崇め、その加護やお告げを聞く事。

参籠して95日目の深夜、救世観音が現れ、“「たとい女犯するも極楽往生を遂げさせる」ので、このことを衆生に告げるように”と告げたというのです。親鸞はこのお告げを復命し数千万の衆生にそれを説き聞かせようとしたときに目が覚めたといわれます。

女犯戒は仏教の戒律で最も厳しいものです。これを厳格に守ろうとすれば、僧は別にして、一般の妻帯している人は極楽にはいけません。救世観音のお告げは、これを解決し、仏教を普及させる大事なお告げでした。

見真堂:八角屋根

話が長くなりましたが、見真堂の建物にご注目ください。屋根が八角形になっています。これは法隆寺の夢殿を模した形です。また、お堂の中に、親鸞聖人の像が安置されていますが、その横、正面右手に若き聖徳太子の絵が架けられています。

見真堂内

実は、かの聖徳太子は救世観音の化身と言われ、京都の六角堂は聖徳太子が建立したと言われています。当時、比叡山(天台宗)の僧は聖徳太子に対する尊崇の念が強かったといわれますが、親鸞聖人は六角堂の体験から、特に聖徳太子に対して強い崇敬の念をもっておられたのです。

救世観音のお告げの後、聖人は法然上人の草庵に行きます。百日間通い、専修念仏の教えを受け、この道に入る事を決心したといわれてます。実はその様子を見ていた人がいました。誰あろう、妻となる恵心尼その人です。弟子入りを決心したその場にも立ち会っていたのです。

見真堂の隣にある「居多ヶ浜記念堂」へ

本格的な修行僧としてスタートするその場から立ち会っていたとは強い縁が感じられる話ですが、さてどんな方なのでしょう? 見真堂の隣にある「居多ヶ浜記念堂」にお2人の肖像画があります。早速見てみましょう。

恵心尼肖像:居多ヶ浜記念堂

恵心尼はどちらかといえば、柔和で貴族出身という育ちの良さが感じられます。

親鸞聖人肖像:居多ヶ浜記念堂

一方、親鸞聖人はどちらかというとゴツゴツとした感じがする人物に描かれています。性格は反対で互いに補いあえるタイプであったのかもしれません。お2人は9歳違いでした。

しかし、僧なのに結婚するとはどのような経緯があったのでしょうか(恵心尼はこのときには出家していません。恵心尼が出家したのは年老いてからといわれます)? 詳細はわかりませんが、六角堂でのお告げの関係でしょうか?

親鸞聖人は恵心尼を観音菩薩の化身と考えていたと言われます。一方で恵心尼の方も(後日、関東で布教をしている際に)親鸞聖人は観音菩薩の生まれ変わりであるとの夢を見たとか。六角堂でのお告げが、お2人の関係にも大きく影響しているようです。

所で、先の見真堂ですが、この名前は、明治天皇が親鸞聖人に「見真大師」という大師号を贈られたことに由来します。居多ヶ浜記念館には、明治天皇の御宸筆の「見真」の文字を写した額もあります(通常は奥にしまわれていますので、見たい方はお申し出てください)。

明治天皇御宸筆:居多ヶ浜記念堂

さて流罪生活の七年後、1211年に流罪が解かれました。このとき、通常であれば僧籍に戻り京都に帰る事ができるはずなのですが、聖人は戻らず、長野の善光寺にしばらく居た後、関東での布教活動を精力的に行います。

非僧非俗のまま布教活動をした事になりますが、この辺り、なにか聖人の意地が感じられます。しかもこのとき恵心尼を始め、生まれた子供達も皆一緒でした。

何故、京都に戻らなかったのでしょうか? 実は、流刑を契機に、大勢の人々を教え導きたいという気持ちが強くなったと言われます。このような背景から居多ヶ浜には「念仏発祥の地」という石碑が立てられています。

まさに親鸞聖人が布教活動を開始するきっかけは流罪の地、ここ越後にあるのです。さらに罪名の藤井善信ではなく、親鸞(正式には「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」)と自ら名付けたのも実はこの地でした。

関東での布教の拠点は、常陸国稲田郷(茨城県笠間市)でした。この地に草庵(稲田草庵)を建て、多くの信者を獲得し、またその後に、浄土真宗の聖典ともなる「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」の執筆も行いました。

先に紹介した居多ヶ浜記念館でこの教行心証の写し(国宝 板東本教行信証の写し)を見る事ができます。

教行信証写し:居多ヶ浜記念堂

見てください。訂正や書き直しなどが至る所に見られ、思索の跡が実に生々しく感じられますね。この書を見ていると、聖人を身近に感じられます。

所で聖人はこの教行信証の完成の喜びを山号・寺号に顕され、稲田草庵を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して「浄興寺」と名付けられました。

居多ヶ浜記念堂
新潟県上越市五智6-3-4
公式HPはこちら

上越市の寺町に移転した浄興寺

この由緒ある浄興寺は後日、信濃国に移りましたが、川中島の合戦で堂の建物が炎上してしまいました。このため後日、上杉謙信公が浄興寺を越後に招き、上越市の寺町に移転して現在に至っています。

浄興寺本堂

この浄興寺、単に聖人が教行信証を完成させた場所としてではなく、聖人が亡くなった後、聖人の”御頂骨”が安置されている貴重な場所でもあります(聖人の遺命により)。

またその後、歴代の本願寺門主もここに御頂骨を分納する習わしができ、一般の門徒も含め50万人以上のお骨が現在納骨されています。

親鸞聖人御廟

浄興寺の境内、本堂の右手に親鸞聖人の御本廟、また聖人ゆかりの品物が見学できる宝物殿があり、これらも見所です。また浄興寺の境内入り口には太子堂があり、お堂の正面に聖徳太子像が安置されています。

浄興寺太子堂

実は稲田郷にいたときから聖人はこの像に日夜奉仕されていたといわれるものです。ここもぜひご覧ください。

さて、関東で布教活動に20年近く取り組んだ後、聖人は1235年に京都に戻ります。流罪を解かれた直後に戻らず、布教活動に大きな成果を上げた後で京都に帰ったのは”故郷に錦を飾る”、という意味だったのでしょうか?実は、そんな状況ではなかったようです。

当時、師の法然の浄土宗は京都では存亡の危機にありました。これをなんとかしようと思われたのかもしれませんが、京都では布教活動はままならず、定住せずに居を転々と移していたといわれています。また、関東の信者とも没交渉状態であったとか。

妻や子供達は越後に戻り、身辺の世話をしているのは末子の覚信尼(かくしんに)でした。布教がままならない状態で赤貧洗うがごとくの生活の中、聖人は主に著作活動に励んだといわれます。生活を支えたのは恵心尼が越後から定期的に送るお金だったようです。

浄興寺
新潟県上越市寺町2丁目6−45
公式HPはこちら

理解が深まる「ゑしんの里記念館」

親鸞聖人の生活を最後まで支えた恵心尼ですが、この恵心尼が末娘の覚信尼などとやりとりした手紙などが見られる場所があります。上越市板倉にある「ゑしんの里記念館」です。

ゑしんの里記念館

手紙などはかなり長文が多いのですが、読むと子や孫など、家族への篤い思いが伝わって来ます。また、ここでは恵心尼の生涯の重要な六場面を描いた絵巻物「恵心尼伝絵」が展示され、恵心尼の一生をわかりやすく理解できます。

さらにここには聖人と恵心尼の肖像画もあるのですが、居多ヶ浜記念館で描かれている肖像とは年代が違い、老年になった時の姿が描かれています。

恵心尼はより丸く、親鸞聖人はよりゴツゴツした感じで、苦難を乗り越えた深みが良く出ているように思われます。比較してみると人生そのもののが伝わってくるようで非常に面白く感じられるはずです。

ゑしんの里記念館
新潟県上越市板倉区米増 新潟県上越市板倉区米増27−4

90歳で亡くなった親鸞聖人

親鸞聖人は90歳で亡くなられました。“遺骸は鴨川に流して魚に与え、葬儀は行わないように”と遺命されましたが、意思に反し、荼毘に付され埋葬されました。埋葬地が後日、大谷廟堂と呼ばれ本願寺の発祥の地となります。

親鸞聖人は一宗派を興す事は考えていなかったといわれます。しかし、覚信尼の孫の時代(第三代)に宗派として立ち上がり、第八代の蓮如によって本願寺が栄えます。この蓮如の隠居所が後に、織田信長との戦で有名になる石山本願寺(後日、この場所に大阪城が建てられた)です。

また加賀国では守護を追い出し、加賀は本願寺の支配下になってしまいます。このような動きは親鸞聖人の考えていた宗教の理想姿とは大きくかけ離れてしまったようにも思われますが、歴史とは皮肉なものです。

一方、恵心尼の方ですが、こちらも87歳を超える長寿であったといわれます。ご夫婦ともに長寿とはうらやましい気がしますが、ゑしんの里記念館の隣接地に恵心尼公廟所あり、石の卒塔婆があります。

五重石塔:恵心尼公御廟

非常に質素な造りの五重の塔で、恵心尼の生活スタイルが感じられますが、樹齢6百年といわれる”長寿”のこぶしの古株と一緒に見つかったといわれます。

上越市で日本最大の宗教、浄土真宗、その宗祖である親鸞聖人と妻の恵心尼の足跡をたどってきましたが、この宗教はお2人で作り上げたものである事が強く感じられます。

また逆に、苦労を知ると非僧非俗の立場で布教活動をされた当時と、現在の大宗教の姿とはギャップがあるようにも思われます。歴史の面白さは、未来の予測が不可能な点にあり、人生は貴賎の別なくドラマなのかもしれません。

聖人の人物像は? また恵心尼の苦悩は?

親鸞聖人には数人の子供達がいた事が分かっています。しかしその中には、恵心尼が生んだのではない子供がいたという説があります。壬生(みぶ)の女房の子供といわれますが、壬生の女房とはどなたなのでしょうか?

親鸞聖人は、自ら”愚禿親鸞”と名乗りました。愚禿とは”非僧非俗にして破戒愚痴の徒”という意味なのだそうです。通常は、愚かで低劣な自らが救われるならば万人が救われる、という宗教的な意味に解釈されるようですが、個人的には他の女性とも関係がある自らを象徴していた名前のようにも思われます。

聖人は、現代風にいえばチョイ悪な、面白い方だったのかもしれません。しかしそんな聖人と苦労をともにした恵心尼、偉い方ですね。この件で悩む事はなかったのでしょうか?

また越後には恵心尼、つまり三善家の領地があったと言われます。恵心尼はわざわざ越後まで流罪に付き合う事はなかったはず(当時は妻問い婚で、離縁した、という事にすれば一緒に越後まで来なくて良かった)なのですが、このような背景もあり、経済的な見通しがあったのでしょう。

恵心尼の筆跡・文章を見ても、かなりしっかりとした知的な方のように思われます。アウトサイダーだった親鸞聖人が成果を上げられたのは恵心尼のおかげと思われますが、恵心尼はいろんな苦労を表には出さない方だったようです。

”親鸞聖人は幸せ者”というのが関連場所をおとずれた感想です。とはいえ、人を引きつける人間的な魅力があった方だったのでしょう。聖人の肖像画を見ていると、人としての味わい、深みなどが伝わって来るように思われます。ぜひ一度ご覧ください。

この記事を書いた人

まあ君

まあ君

東京の田舎に住む、少しメタボなおじさんです。歴史とお酒が好きで、面白い事を見つけると飛んで行ってしまいます。酒蔵のせがれに生まれ変わり、道楽で発掘を行うのが理想ですが、最近は少し料理にも興味が出てきました。古墳・酒蔵・神社などを中心に旅行を楽しんでおります。

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