旅好きな土屋太鳳が「ちちんぶいぶい」とおまじないを唱えている秩父のPR動画を見たことがあるでしょうか。今回は、そんな内陸の山々に囲まれた秩父が「海」だったという、太古のロマンを感じさせる旅をご紹介します。
深い山々に囲まれた盆地にある秩父、もともと海だった?
出展:西武鉄道株式会社
池袋駅から西武鉄道に乗って秩父を訪れたことがある人ならば、埼玉県とは思えない、山岳鉄道のような風景に驚いた経験があるのではないでしょうか。
深い山々に囲まれた盆地にある秩父は「山のイメージ」が強く、海だったなんて信じられないと感じるでしょう。「ウソのような本当の話」ですが、本当なんです。秩父盆地を端から端まで巡りながらマニアックに「古代秩父湾」へ妄想ダイブしてみます。
古代秩父湾とは?
▲羊山公園見晴らしの丘から見る秩父盆地
秩父地域の地層調査からわかったことですが、約3億年前の日本列島は海の底だったようです。秩父のシンボルになっている武甲山は、石灰が採掘されることで有名ですが、海中生物の遺骸(いがい)が海底に積もり積もってできた山のようです。
日本列島が陸地として現れるまでは、海底火山噴火や地殻変動などがあったようで、その後気候がたいへん寒くなり、海岸線が後退して陸地が広がっていきました。
秩父も含めて東京湾も、度々海中へ沈んだり陸地に戻ったりするようなできごとが繰り返されてたようです。
太古の秩父湾は約1,700万年前、現在の秩父盆地でいうと北側の長瀞町から西側の小鹿野町まで広がっていたと言われています。
秩父盆地内で見られる地層からは、約1億年前~1,700万年前までの間に時間的な連続が認められず、「地層の空白期間」があることから「不整合」という言葉が使われています。「不整合」の地層は、皆野町や小鹿野町で見ることができます。
なぜ秩父湾は消えてしまったのか? 何が起こったのか?
約1,500万年前、秩父湾の東側が隆起して、太古の秩父湾は消滅してしまったようです。隆起した地域が、現在の秩父盆地の原型になったと言われています。約100万年前、現在の埼玉県秩父と東京都奥多摩地域だけが、海面へ隆起して「秩父島」になったようです。
秩父島の入り江は、北端に位置する長瀞が入り江の入口となり、東端の横瀬から西端の小鹿野までの地域に広がっていたようです。島全体が次第に隆起すると、入り江の海面が後退して、海底だった秩父盆地が陸地になりました。
約10万年前、陸地に海が侵入してきましたが、約7万年前には海が後退していきました。現在の関東平野の周りにある、「箱根山・富士山・浅間山・赤城山」などの火山活動が活発になり、たくさんの火山灰が降り注ぎました。
積もった火山灰が、現在の武蔵野台地などの関東ローム層と呼ばれるモノになります。
なぜ海だったことがわかったのか?
▲埼玉県立自然の博物館
「過去から未来へ埼玉 3 億年の旅そして自然と人との共生」をテーマにした、埼玉県立自然の博物館で情報収集してみましょう。
埼玉県深谷市で発見された巨大ザメ「カルカロドン メガロドン」模型のほかに、
秩父地域で発見された「パレオパラドキシア」の全身骨格復元、小鹿野町で発見された「オガノヒゲクジラ」の頭骨化石など展示されています。
約2憶5,000万年前の海の想像図です。ウミユリが棲む太古の秩父湾には、クジラやサメの先祖たちが泳いでいたのかもしれませんね。
秩父はありのままの素材があるジオパーク
日本地質学発祥の地になっている秩父は、ジオパークに認定されています。ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」を組み合わせた言葉で、ありのままの自然から地球(ジオ)を学ぶことができる場所を指します。
ライン下りで知られる全長約4kmの長瀞渓谷には、「川沿いの遊歩道」が整備されていて、自然の博物館前から遊歩道を横切り川辺に降りることができます。
川辺は折り重なるようにゴツゴツした大きな岩場になっています。大きな岩のドミノ倒しのような風景が広がり、下流に向かって倒れて重なっています。
ドミノ倒しのようになっている岩場の中には、トラの毛皮の模様に似ている幅15mほどある結晶片岩の「虎岩」と呼ばれている岩があるようです。
同じような模様ばかりの岩場で「虎岩」を探しているうちに、突然の豪雨に見舞われて途中で断念しました。
山間部の天候が急変する恐ろしさを、身をもって体験することになり、ズブ濡れで心が折れそうになりながら……崖上の遊歩道に戻ります。
川の反対側が急斜面になっている遊歩道には道標が無い分岐点があり、5mほど下にある川辺に降りられるようになっています。
川幅が狭くなるポイントは、ラフティングボートの醍醐味を感じられる場所でもあります。
古代秩父湾の入り口だった長瀞
急流ポイントを過ぎると視界が開けてきます。「虎岩」のある岩場より大規模な岩場が見えてきます。岩畳の上流端の到着したようです。
しゃがんで眺めてみると、岩のミニチュア「グランドキャニオン」のようにさえ見えます。
「長瀞の岩畳」は、地下20~30kmで形成された結晶片岩が隆起して、畳のように広がったモノと言われています。写真の中央右下に写っている丸い穴は、「ポットホール」です。
ポットホールは、急流の川底にある岩石の柔らかい部分に小さい凹ができると、くぼみに流れて来た小石が長い時間をかけて転がってできた穴です。
古代秩父湾の入口に位置する長瀞渓谷や絶壁になっている岩畳を見ていると、大自然のエネルギーや、気の遠くなるような時間の流れを感じずにはいられません。
長瀞の岩畳には、ポットホールが数カ所あるので、崖から落ちないように探してみてはいかがでしょうか。
古代秩父湾の西奥にあたる小鹿野町
長瀞を離れ、古代秩父湾の西奥に位置していたと思われる、小鹿野町の「おがの化石館」へ移動して情報を集めます。
「おがの化石館」周辺の地層からは、多くの化石が出土されていて、「パレオパラドキシア」の骨格標本模型、新種と認められた「チチブサワラ」の化石と標本など展示されています。
パレオパラドキシアは「世界の奇獣」と言われていて、約1500万年前の海辺に生息していた謎の海獣です。パッと見ではカバに似ていますが、現生の動物との関係が認めらない不思議な動物とされています。
出土された化石が多すぎるためか? 無造作に置かれた「アンモナイト」が印象的です。
「おがの化石館」の2Fからは、「ようばけ」と呼ばれる崖が見えます。赤平川の右岸に、高さ100m、幅400mに及ぶ大露頭(だいろとう:地層が露出している場所)があります。
「ようばけ」と呼ばれる地層とは?
「おがの化石館」から「ようばけ」に近づくことができます。
歩いて5分ほどの距離なので向かってみます。
「ようばけ」とは、「陽の当たる(よう)崖(ばけ)」という意味から、「ようばけ」と呼ばれるようになりました。
約1,500万年前に堆積(たいせき)したと言われた地層からは、クジラやサメ、貝類などの化石が発見されました。「ようばけ」と同じ地層が分布する近くの般若地域から、「パレオパラドキシア」の化石が発見されました。
現在でも崩れやすくなっている崖の対岸からは、自動車ほどの大きさもある岩が川を越えている様子が容易に想像できるので、細心の注意を払って河原に降りましょう。崖崩れの危険があるため、対岸の崖側へ渡ることは禁止されています。
古代秩父湾の終焉の地
古代秩父湾の西奥に位置する小鹿野町から秩父盆地を横断して、横瀬町の「ウォーターパークシラヤマ」を目指します。
小鹿野町とは秩父盆地を挟んだ反対側の東奥に位置する横瀬町には、古代秩父湾の終焉の地を示す地層があります。
「新田橋の礫岩露頭(れきがんろとう)」は、横瀬町歴史民俗資料館の裏側にある「ウォーターパークシラヤマ」内の地層です。
前述の「長瀞の岩畳」「ようばけ」のほか、秩父盆地に点在する「前原の不整合」「犬木の不整合」「取方の大露頭」「大野原化石産地」の6カ所の露頭は、国の天然記念物に指定されています。それぞれ足場の悪い川沿いの場所にあるため、訪れる際は滑りにくい靴が必須です。
古代秩父湾周辺の陸域から供給された「角がとがった礫(れき)」を含む地層が、古代秩父湾の終焉を示す地層だと言われています。
古代秩父湾に触れてみて……新たなロマンが湧きだす
「新田橋の礫岩露頭」に近い「寺坂棚田」へ足を伸ばしました。ロマンたっぷりの古代秩父湾に妄想ダイブをしながら、秩父盆地を縦横無尽に巡っているうちに、別の興味深いテーマに辿り着きました。
入り江になっていた海の中のことばかり考えていたのですが、秩父湾の周りには現在とほとんど変わらない山々の風景があったことに気づきます。
人間にとって、あまりにも存在が大きすぎる武甲山は、古代秩父湾が存在していた時にも、現在と同じ場所にあったと思っても不思議ではありません。
武甲山の地層を知ることで、「石灰岩」ができるまでの工程と、化石ができまでの長い時間を考えた時に、ある妄想が湧きだし始めます。
武甲山の石灰岩は海の中のサンゴ礁からできた石灰岩だとわかっています。サンゴは浅い所でないと生育しない習性があるので、暖かい南洋の海底深いプレートにあったのではないかということです。
日本列島の周囲には、いくつのも大陸プレートがあり、サンゴ礁からできた石灰岩のメカニズムを知れば知るほど、興味深いことがわかります。
ひとつの旅の終わりに、次の旅のテーマが見つかるなんて、いつまでたっても止められない旅は素敵ですよね。