織田信長が築いた城として有名なのが、滋賀県にあった“安土城”です。信長公が天下統一に向け、仕上げの段階として作ったのがこの城です。
本能寺の変の後、焼失してしまい再建されませんでしたが、従来の城と異なり、この安土城は、①民衆に見せるための城、②琵琶湖地域を面で制圧するネットワークの司令塔、であったようです。
しかし、信長公は何故このような建物を建てようとしたのでしょうか? またこの城を知ると、歴史上のある人物が浮かび上がってきます。誰でしょう? さあ安土城に行ってみましょう。
信長公の安土城築城~転換点は天正三年
そもそもその発端は天正3年に始まります。この年の5月、「長篠の戦い」で武田を破ります。また、家臣への賜姓・任官を奏上しました明智光秀が惟任日向守、丹羽長秀は惟住、羽柴秀吉は筑前守、滝川一益は伊予守などです。皆、九州や四国地方に関連した名前に任官したのが大きな特徴です。
9月には越前の一向一揆を徹底的に討伐し、越前に柴田勝家を据え、丹波国に明智光秀を侵攻させます。さらに10月には本願寺と和睦がなり(三度目)、11月に信長公は大納言右大将に任官し、武家の棟梁格となり(殿様から「上様」へと呼称も変化)、天下人に近づきました。
まさに順風満帆で、年末に織田家の家督と岐阜城を嫡男の信忠に譲ったのです。そしてこれ以降は戦場に出て直接軍団を指揮する事もめっきり減る事になります。
有力武将を四国や九州に関連した名前にし、家督も譲った事は将来を見据え、これからの新体制へと布石を打ったといって良いでしょう。そして信長は茶道具だけを携えて重臣の佐久間信盛の屋敷に引っ越し、翌年早々に、安土城の築城にとりかかったのです(3月に御座所が完成しそこに引っ越し)。まさに安土城は天下人信長公のために作られた城なのです。
まずこの安土城跡に行って見ましょう。安土城は山城です。もとは六角氏の居城であった観音寺城(山城)の北側、安土山に建てられました。
まず“大手道”から登りましょう。写真のようにこの道はかなりの急勾配です。実は、当時一般の人間はこの道を通って登城する事はできませんでした。ここは天皇など身分の高い人間のみが使える道で、一般の人々は、大手道の左手にある総見寺を通る“百々橋口道”より登城していたのです。
偉い方々のみが登城できるステータスのある大手道ですが、登るのは大変です。
この大手道の両脇には、織田信忠、豊臣秀吉や前田利家などの武将や吏僚として有名な武井夕庵などの屋敷跡が残されています。写真は秀吉邸跡です。ちなみにこれら有力武将以外の下級武士は城下に屋敷を拝領していました。
この安土城の特徴の1つは”虎口”にあります。石段を登り切ると正面に石垣があり、いったん曲がらないと次の区画に入れない構造になっているのです。城の防御を考えた構造になっていました。
この構造は、北条氏照の城であった八王子城にも生かされ、現在も見る事ができます。北条氏は滝川一益を取次として安土城に何回か献上品を届けていました。きっとこの時にこの構造を知ったのでしょう。
また、本丸に登る手前、二の丸跡には、信長公の廟があります。これは当然、信長公が生きていた時のものではなく、死後に豊臣秀吉が建てたものといわれています。
本丸跡を通り頂上にあるのが、有名な“安土城天主”の跡です。いまは基礎部分のみが残されていますが、この天主が安土城の大事な機能、“見せる城”の中心的な機能をもっていました。
現在、天主跡には周辺に木々が生い茂り、あまり遠くを見渡せませんが、木々の間から見える光景から、往時にはさぞかしという風景が展開しています。
太田牛一が記した「信長公記」によれば、安土城から見ると、西から北には琵琶湖が水を満々とたたえ、湖の向こうには比叡の山も見え、漁村の夕暮れや漁火の風情が実にすばらしいと記されています。実はここから後述の長浜や坂本が見えるといわれます。
現在の安土城跡は内陸部に位置していますが、築城当時は琵琶湖に面し、船の出入りも頻繁だったのです。「信長公記」には信長公が坂本から船で安土城に帰城した事も時々記されています。
安土城の天主~世界で初めての木造高層建築!
まず“天主”と記しましたが、お城の最も高い部分は、当初、物見櫓として作られていました。これが、城主の権力を象徴する高い建物となった最初は、文献に出てくる中では、松永久秀がつくった“多門城”(奈良県)が最初のようです。白壁の4階建てだったとか。信長はこれを7階建(地上6階、地下1階)てにし、高さ13mの石垣の上に建てたのです。
これは「世界最初の木造高層建築」です。安土山は琵琶湖の湖面からは112mあり、この上に46mの建物、併せて城下からみると、158mの高さとなります。日本最初の高層建築である「霞が関ビル」は地上高147mといわれますので、これよりも高く、戦国時代の人々が安土城を見て吃驚したのも容易に想像できます。
ところで天主と記しましたが、明治維新以前は「天守」「殿守」や「殿主」と記して「てんしゅ」と読むのが一般的だったようです。これを「天主」と表記したのは信長公で、安土城の前に築城した岐阜城で使ったのが最初といわれます(ちなみに岐阜城で4階建ての御殿をつくり、これを天主と呼んだ)。
この安土城の天主が復元され、展示されている場所があります。それが「信長の館」です。ここに、安土城天主の最上階(6階)とその下の五階部分が復元されています。この復元天主ですが、著作権の関係で写真をお見せする事ができません。そこで信長の館のホームページに掲載されている写真を見ていただきながら少し解説をさせていただきます。
天主の最上階、6階から紹介しましょう。ここは三間四方(“正方形”)で座敷の内側は金で仕上げてあり、柱はすべて黒漆で塗ってあります。このコントラストは非常に見事です。
また天井には天人の姿が、座敷の中は古代中国の三皇・五帝や竹林の七賢人が描かれています。ここは天下人の倫理観をはぐくむ「天道思想」を具体的に教えているといわれます。また屋根や軒下には金箔が貼られています。この復元天主の6階内部は、外階段を登り見る事ができます。
その下の5階部は“八角形”です。外側は朱塗りで内柱は金箔が貼られ、6階とは趣きが大分違います。部屋の壁には釈迦が悟りを開くまでの説法の様子が、また縁側には餓鬼や鬼が書かれており、仏教色の強い内装がされています。
5階から6階を見上げると、金箔に反射する光の豪華絢爛さに眼を見張ってしまいます。
安土城復元ジオラマを見ても分かるように、城の中央にある大手道の真上にこの天主が位置しています。
従って“下から登ってくる時に威圧感あるいは信長の権威を意識せざるを得ないように作られている”のです。この様子はシアターで再現上映され、体験する事ができます。
安土城天主は、遠くから見ても陽の光でキラキラと輝き、まさに見せる建物だった事が良くわかります。信長の館で復元展示されているのは上層部(5階、6階)のみですが、天主“全体の構造”は、「安土町城郭資料館」で見る事ができます。
天主の建物の下層は、“真ん中が吹き抜け”になっており、最下層の中央には天下の中心を示す宝塔が置かれていました。また4階を除き、2階、3階にも中国古代の賢人や仙人、また鳳凰や鷹などの絵が描かれていたといわれます。この建物はまさに天の主、天下人のための建物であったのです。
ちなみに安土城天主が竣工したのは天正7年です。この間、天正4年には、前記の多門城の「天主」を京都に移築する計画も推進しています。“天主は天下人信長公だけのもの”だったのです。
信長公の本当のお顔
ところで、皆さん信長公のお顔をご存じでしょうか?
よく教科書やTVなどで用いられる絵が愛知県長興寺所蔵の狩野元秀が描いたものですが、実は織田本宗家(織田信長の次男、信勝を祖とする天童藩)には宣教師が描いたという信長公の「別の肖像画」があるのです。織田宗家の菩提寺であった三宝寺(山形県天童市)に織田家霊廟がありここに収められていたものです。
著作権の関係がありますので写真をお見せする事はできませんが、ここ三宝寺を紹介するサイトに掲載されていますので見て下さい。前記、「信長の館」でもパネル展示してあります。TVで見かける肖像とは全く異なった威厳のあるお顔をしているのが分かるかと思います。このお顔であれば、後日天下人となった秀吉や家康が従ったのも納得です。ぜひご覧ください。
地理から考える安土城~ネットワークで琵琶湖を支配
さてこのように天下人の城として見ると、安土城の位置や役割も通常の城とは違うはずです。これを地理上で確認してみましょう。実は、安土城は城のネットワークで琵琶湖一円を面で支配する役割を有していました。
琵琶湖ネットワークイメージ図
上記の図で赤く記された所に着目してください琵琶湖の周辺には安土城に信長公、坂本城に明智光秀、長浜城には羽柴秀吉、そして琵琶湖を挟んだ向かいには一族の津田信澄(信長の甥)が守る大溝城と、4つの拠点で相互に協力体制を整備していたのです。
琵琶湖を面で抑え、伊吹山裾を通り、織田信忠の岐阜城とのルートを確実に確保する事を基本にし、柴田勝家の北ノ庄城から北陸方面、また瀬戸内海方面や若狭方面へ進出するルートを確保し、今後の日本支配を確実に行うための核がこの城のネットワークでした。特に伊吹山裾を通り岐阜へのルートがこの生命線だった事でしょう。
ここは非常に狭いあい路で、後日おこなわれた“関ヶ原”の戦いや、大海人皇子(天武天皇)の「壬申の乱」でもこの近辺の“不波関”の確保が戦いの重要ポイントとなりました。
また京都への陸路では瀬田橋の確保が重要です。この近くの坂本を光秀の拠点としたのもその重要性を考えての事でしょう(比叡山の抑えとしての役割の他に)。ちなみに大溝城主であった津田信澄は光秀の娘婿で、後日、大阪城の城代になっています。安土城を挟んだ琵琶湖の対岸は、丹波・丹後支配といい、まさに光秀に任されていたのです。
これだけ信頼されていた光秀ですが、本能寺の変を起こしてしまいます。驚くことに、反乱を知った信長公が最初に疑った相手は、“嫡男の信忠”だったと「三河物語」には記されています。また光秀側の資料にも、“信忠公が謀反したので光秀が信忠に味方する、と言って本能寺に乱入した”と記されているものがあるといわれます。信長公にとっては想定外の事変だったのかもしれません。
いずれにせよ、本能寺の変で信長公と信忠が討たれ、しばし騒乱の時代に逆戻りし、安土城も天主が焼け、信長公が思い描いた、これからの日本支配の構想などは窺い知る事ができません。また織田宗家に伝わる信長公の肖像画をみていると、巷間伝わる信長公の“残虐性”や“冷酷性”などは無縁のようにも思えます。
安土城跡に登り、復元天主や信長公の肖像画を思い出しながら、見せる安土城や琵琶湖を抑える安土城のネットワークを体感し、天下人信長公の将来構想、また光秀謀反の歴史ミステリーなどを考え始めるとワクワクするはずです。少し登りが苦しいかもしれませんが、ぜひ天主跡まで行ってみて下さい。
なお、「信長の館」の直ぐ隣に「滋賀県立安土城考古博物館」があります。先に紹介した安土城復元ジオラマをここで詳しく見る事ができます。他にも安土城跡から出土した瓦や鯱、また信長公の陣羽織などが展示されています。
古代にも織田信長がいた~「継体天皇」
ところで、日本の歴史を見ると、織田信長と似た革命児がいた事に気がつきます。その足跡をたどっていくと、信長公との類似点が多い事にさらにびっくりします。誰だと思われますか? 第26代の「継体天皇」(男大迹王:をほどのおおきみ)です。雄略天皇が亡くなったあとの混乱を収拾して体制を継承した天皇で、“現在まで続く天皇家のご先祖”といわれる方です。
この継体天皇の出身は越前(前掲イメージ図の「越前高向」)といわれます(近江説もあります)。実はあまり知られていませんが、“織田家の先祖も越前出身”で、守護であった斯波氏に従い尾張に移ってきたのです。越前に織田劔神社がありますが、ここが“信長公の氏神”とされています。
また継体天皇が即位するに際しては、反対勢力もいました。地方豪族達の中で継体天皇を支持したのは、三尾氏、息長氏、坂田氏や和邇氏などの琵琶湖周辺の近江の諸氏と、尾張氏や岐阜の根王(ねのおおきみ)なのです。なんと、琵琶湖周辺を支配した信長公のネットワーク勢力の位置と重なります。
近江の古代豪族分布図:滋賀県立安土城考古博物館所蔵
さらに継体天皇は日本海の敦賀から琵琶湖、さらに宇治や淀川の水上交通路を整備し、即位に反対していた大和の豪族たちに対して経済面でも優位性を確保していました。これも関所を撤廃して物流の自由を確保したり、琵琶湖を面で抑えた信長公の戦略とも通じます。
実は、安土城と反対側、大溝城のあった高島地域には継体天皇と関連した古墳があります。「鴨稲荷山古墳」です。ここは継体天皇を支えた三尾氏の首長の墓と考えられており、ここに「高島歴史民俗資料館」があるのですが、ここで継体天皇や信長公に関連した展示物を見る事ができます。
資料館の2階には、信長公の黒印状(複製)(当時は、重要な文書には朱印が、私信などには黒印が用いられたといわれますが、信長の時代にはこの区別はあいまいだったようです)や豊臣秀吉・徳川家康の書状(複製)などが展示してあります。
信長公は有力武将に“茶器”を与える事で、そのステータスを高めていた事はよく知られています。実は継体天皇も同様の事をしています。茶器ではなく、“金銅製の冠(広帯二山式冠)”を威信財の1つとして有力豪族に与えていたのです。
これらは九州の江田船山古墳や奈良の藤ノ木古墳から出土しているのですが、ここ鴨稲荷山古墳からも出土しています。これは“光る物”という点で天主と通じ、見せるツールであった事が共通します。高島歴史民俗資料館の1階で、この冠をぜひ見て下さい。“金銅製の飾履”(いずれも複製)など珍しいものも展示されています。
いずれにせよ、天下の支配者になるべく、地方からスタートし、政権中枢にじわじわと手をのばし、実績を積み上げてきた点では継体天皇と信長公は非常に類似した立場、考え方をしていたように思われます。この高島歴史民俗資料館で展示物をみていると、2人の像がピタリと重なります。
とはいえ、豪族達のバックアップをもとに天皇家を継承した継体天皇とワンマンの末に本能寺で討たれるという2人の結末は、まさに歴史のイタズラといっても良いでしょう。歴史の面白さ・醍醐味が分かる瞬間です。安土城からは少し遠くなりますが、高島歴史民俗資料館もぜひ訪れて下さい。
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦