日本にも実は178ヶ所ある、ストーンサークル。しかもその4割があるのは…秋田県。
日本

ストーンサークルで有名なのはイギリスの「ストーンヘンジ」ですね。紀元前2,500年から2,000年の間に建てられたものです。巨大な石が馬蹄形に配列されていますが、氏族や部族のまとまりを保つために行われる儀礼・祭典のために造られたいわれます。

ところで、日本ではもっと古く、6,000年前頃からストーンサークルが各地に作られていました。その数なんと178ヵ所。しかもその約4割(74ヵ所)が東北の秋田県で見つかっているのです。なぜ、ここ秋田にこんなにたくさんあるのでしょうか? またここで何をしていたのでしょうか?

さあ、見に行ってみましょう。縄文の人々の精神世界の一端が浮かび上がってきます。

日本のストーンサークルは謎だらけ

ストーンサークルとは、石を円形状に並べた遺跡です。石の輪が一重、二重三重にもなっているケースもあり、何故このような構造になっているのか、またこの施設をどのように使っていたのか、などは分かっていません。天文台説、お墓説、祭祀場説など、あるいはこれらを組み合わせた説などいろんな説がありますが、全体を統一した説はまだ無いのです。

ストーンサークルが作られたのは6,000年前(縄文時代)からで、3,000年前には頻繁に作られていたといわれます。また日本で作られた場所は、北海道(29ヵ所)から三重県(1ヶ所)にかけての地で、かつ長野県から西では非常に数が少なくなります。これらの場所は“落葉広葉樹”の分布とも一致しますので、自然環境なども理解しないとストーンサークルの謎は解けないように思われます。

秋田県にある日本の代表的なストーンサークルでこの謎に挑戦してみましょう。ここには2つの代表的なストーンサークル「伊勢堂岱遺跡」と「大湯環状列石」があります。これらは祭祀跡と言われていますが、お墓や天文台などの機能もあり、謎を解くには好適なストーンサークルなのです。

伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)


ここは4,000年前、縄文時代後期に作られました。台地の上に“4つ”のストーンサークル(①~④)が作られています。同じ場所に4つもサークルが作られているのは非常にまれなケースです。

この中で②のストーンサークルは未完成で円形ではなく弧状をしています。また残りの3つも同一形状ではなく、①は石の輪が一重で直系が32m、③は三重、④が二重となっており、これらが、ほぼ南北の方向に並んで作られている事が特徴です。

実は、この北方向には山々があり、世界遺産である“白神山地”を見る事ができるのです。この位置も謎を解く1つのヒントなのかもしれません。また、4つのストーンサークルと少し離れた場所に日時計型組石が数個あり、これとストーンサークル①を結ぶ方向は“夏至”に太陽が沈む方向とほぼ一致するといわれます。

伊勢堂岱遺跡で用いられている石の例

また、ストーンサークルを作るためには石が必要ですが、伊勢堂岱遺跡では20種類以上の石が使われています。安山岩、流紋岩、凝灰岩などですが、実は石の色も多様で、“青、白、黄色”などがあり、なんと“カラフルなストーンサークル”を作ろうとした可能性があるといわれます。

またこれらの石は米代川や支流の阿仁川など、遠いところで5~6kmも離れた所から運ばれたとの事。かなり石にこだわった作り方がされています。次に、出土品を見てみましょう。ここにも謎を解くヒントがあります。

伊勢堂岱遺跡からは214点の土偶が見つかっています。しかし全ての土偶が壊されていました。一般的に、土偶は女性を表現したものが多い事で知られ、大きく妊娠・出産がテーマとされていると言われます。

板状、中空(中がからっぽ)、中実(中が詰まっている)などに造られ、妊娠・出産やそれにまつわる願いや祈りなどが表現されているといわれます。また、そもそも初めから壊す事が前提で作られたといわれているのです。ずいぶん不思議な事をするものです。

これらの出土品は、伊勢堂岱縄文館で見る事ができます。

この遺跡から出土した中で、唯一完全な形で復元されたのは写真の“板状土偶”だけでした。長さが18cm程度の土偶ですが、女性のシンボルである乳房が表現され、頭にある2つの孔は当時の髪型を表現しているといわれます。個人的には、見た瞬間“天空の城ラピュタのロボット兵”を思いだしてしまいました。逆三角形で身体を表現しているのも面白いですね。

また、ここからは中空の遮光器土器や“三角形の岩版や石器”、

渦巻き状の丸い土製品

キノコ形土製品なども出土しています。何に使ったのか不思議ですが、岩板や土製円盤やキノコ形土製品は儀礼や祭祀にかかわる道具だったといわれます。特に三角は、前掲の復元された板状土偶のように人の形を象ったものとも言われます。

また縄文人は動物をモチーフにして造形をしていましたが、その代表は“蛇”です。脱皮する事から“命の再生”を願う象徴として使われているという説があります。この考えを基にすれば、渦巻き形は蛇を象徴しているのかもしれません。またキノコも突然出現する事から、その植物バージョンなのかもしれません。

面白い出土品が多いですね。またストーンサークル①では、北側に通路状に石が配置され、あたかもここが入口のように開口部が設けられていました。この遺跡が台地の上にある事も少し気になります。妊娠した女性のお腹を象徴しているのでしょうか。

謎の多い伊勢堂岱遺跡。ここは大規模な祭祀場といわれます。北側の山々を背景に、カラフルなサークルの中で、道具(三角形の土版や渦巻き状やキノコ状の土製品等)を用い、何を願ったのでしょう。色彩の豊かさから考えると、楽しさも感じられ、生命と関係する祭祀、例えば子孫繁栄や出産の無事などを願ったのかもしれないという気がします。

伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)
秋田県北秋田市脇神館野 脇神字小ヶ田中田100−1

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)


次に紹介するのは伊勢堂岱遺跡の東方向にある「大湯環状列石」です。ここには万座環状列石と野中環状列石の2つのストーンサークルがあり、これらも伊勢堂岱遺跡と同じく約4,000年前に作られました。ここは国の史跡になった最初のストーンサークルで、特に万座環状列石は日本最大級の大きさ(直径約52m)を誇っています。

これら2つのストーンサークルの“輪は二重”でした。また、数個から数十個の石をいろんな“形(円形、菱形、楕円形等)”に組み合わせ(配石遺構)て輪が作られていました。

また、“日時計状組石(写真は模型)”が各ストーンサークルに作られ、各サークルの日時計状組石を結んだ方向、あるいは日時計状組石からストーンサークルの中心を結ぶ方向は、ほぼ“夏至の日没方向”を指していました。この事からこの施設では、季節の移り変わりを確認していたといわれます。

また、伊勢堂岱遺跡と異なり、ストーンサークルの“各配石遺構の下に死者が葬られ”ていました。つまり大湯環状列石は、お墓でもあったのです。実は円形やひし形などの配石遺構(写真は模型)の形状の違いは、下に“葬られている人を区別”するものであったとされています。

現在でいえば墓石に記されている死者の戒名などに相当するといっても良いでしょう。また、確認されている配石遺構は170基ほどありますので、形のわからなくなったものを含めると、約200人近くの人がここに葬られていたと推定されています(ちなみに伊勢堂岱遺跡の場合、ストーンサークルとは別の“土抗”に人が葬られていました。従って石と墓は関係しないようです)。

さらに大湯環状列石で用いられている石ですが、総数は約7,200個といわれます。しかもその95%以上が“淡い緑色”の石(石英閃緑玢岩:セキエイセンリョクヒンガン)でした。これらの石は、ここから東北東に7kmほど離れた、安久谷川周辺からわざわざ運び込まれたものです。

その大きさは30~40cmのものから大きいもので1mを越えるものもあり、大きい石では200kgを越える重さがあるといわれます。カラフルな伊勢堂岱遺跡の輪と緑色の輪の大湯環状列石、対照的ですね。これもここがお墓である事と関係するのでしょうか?

出土物を見てみましょう。ここでは縄文時代の祭祀に用いられたといわれるすべての道具が出土しています。鐸形土製品(銅鐸に似た形をしている土製の品)、石刀、男根状石製品、キノコ形土製品、土偶、動物形土製品や足形石製品などです。また三角形の岩板も出土しています。

ちなみに土製品は、土偶が161点、土版1点、鐸形土製品190点、動物形土製品6点、キノコ形土製品36点と非常に豊富です。これら出土物は「大湯スト-ンサークル館」に展示されています。

これら出土品の中で面白いのがこの土版です。一見、人形のようですが、よく見ると、大きな口が数字の1、目が数字の2、お腹(胸?)の左右に数字の3と4、そして正中線に数字の5に対応する穴が開けられています。実は裏面にも、肩に相当する位置に3つの穴が2組開けられて、数字の6を示しているのです。

この事から、少なくとも1~6までの数字を縄文人は知っていた事になりますが、何のためにこの土版が作られたのか分かっていません。ガイドブックには“子供に数字の数え方を教えるために親が作ったのではないか“と記されていました。

ちなみに縄文土器は一般的に“土器の口縁”に盛り上がり部が複数あり、装飾されている例が多いのですが、この盛り上がり部の数が7つ以上の物はほとんどありませんので、6までの数を教えたというのもあり得る説かもしれません。

またここからは足形石製品も出土しています。北海道や東北地方では縄文時代の早期から手形や足形の“土版”が造られていました。小児の手形・足形を押し付けて作られたものです。

死んだ子供の手型・足形を親が形見として持ち、親が死んだ時にこの土版を副葬したといわれています。写真は石製で、土製ではありませんが、幼くして亡くなった子供への祭祀と関係して使われていたのかもしれません。

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)
秋田県鹿角市十和田大湯万座13

対照的なストーンサークル

死者が葬られていた大湯環状列石。緑の石にこだわって作られたのは、落葉広葉樹と関係があるようにも思われます。

秋に葉が落ちて枯れ果てたようになる木々が、春になるとまた緑の葉が青々と再生する様子から、“死者の再生”を願って緑の石にこだわって作られたのではないでしょうか。また、日時計状組石も、緑の季節の巡り合わせを確認するために使われていたのかもしれません。

大湯環状列石の入口には縄文時代からあるといわれるクリ、ナラ、ブナなどの木々を植樹して作られた森「縄文の森」があります。森を見ているとこれら木々の茂っている場所にストーンサークルがあるのも不思議ではない気がしてきます。

カラフルな石の伊勢堂岱遺跡に対し、緑色の石にこだわった大湯環状列石。これら2つの場所では祭祀の内容も異なっていたはずです。また、サークルの輪が大湯環状列石では二重に特定されているのも意味があるようです。二重の輪、つまり“蛇の目”です。蛇を意識していたとすれば、やはり“命の再生”という事を考える必要があるようです。

色から覗える縄文の世界、月も関係?

いろいろご紹介しましたが、日時計状組石があったり、配石遺構があったりと2つのストーンサークルは同じように見えますが、石の色や日時計状組石の配置という観点で整理してみると対照的である事が分かります。

伊勢堂岱遺跡では“生者”の祭祀、つまり子孫繁栄や無事な出産を、また大湯環状列石では“死者”の祭祀を、つまり死者の再生を願っていた様に思われるのです。

また、この対照的なストーンサークルが”同時代”につくられ、かつ、位置的にほぼ同じ緯度に位置するのも偶然とは思えません。弥生時代には死者と関係する場所は、“太陽”が沈む西方向と決まっていましたし、“冬至”が非常に重要な日になっていました。冬至に太陽の力が最小になり、この日以降に太陽が力を増す、つまり再生するのです。

しかし紹介したように、死者が葬られた大湯環状列石は東に位置し、逆になっています。“夏至”を日時計状組石で検知している事からは、基準が太陽ではなく“月”であった事が関係するように思われます。夏至には月の勢力が最小になり、この日から勢いが増す。つまり月が再生するのです。

死者の葬り方に着目するともっと面白い事が分かってきます。縄文時代には死者の手足を折り曲げて、葬る“屈葬”という形態が主でした。これは四肢を曲げる事で死者の霊を封じ込めた、あるいは、“胎児”の姿勢をさせる事で再生を願おうとしたといわれます。従って、“死者と出産が結びつけられていた”可能性があるのです。

死者が死んで再生を願う場所(大湯環状列石)と生命が授かり無事な出産を願う場所(伊勢堂岱遺跡)、輪廻転生、2つのストーンサークルがほぼ同緯度にあるのも偶然ではないよう気がしてきます。

対照的なストーンサークル、皆さんはどう思われますか? 少し穿った見方をすれば、日本人の“ハレとケ、ケガレ”の思想の起源がこのストーンサークルにあったのかもしれません。ぜひあなたもここで謎解きをしてみて下さい。縄文の人々の精神世界が広がってくるはずです。

この記事を書いた人

まあ君

まあ君

東京の田舎に住む、少しメタボなおじさんです。歴史とお酒が好きで、面白い事を見つけると飛んで行ってしまいます。酒蔵のせがれに生まれ変わり、道楽で発掘を行うのが理想ですが、最近は少し料理にも興味が出てきました。古墳・酒蔵・神社などを中心に旅行を楽しんでおります。

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