10万人が消えた。朝鮮戦争とは何だったのかを考えさせられる町・鉄原を歩く
韓国

ソウルから北へ行くこと約100キロ。江原道鉄原。「鉄原五台米」というブランド米の産地として知られるここは、かつて、交通の要所としてにぎわった町でした。国境の町・鉄原のたどってきた道を歩いてみましょう。

ソクたびソクたび

古代から近世

三国時代、ここは高句麗に属していました。三国時代というのは、西暦前1世紀から西暦後7世紀くらいの時代のことで、最初に建国した北の高句麗(紀元前37年建国)、次いで高句麗の王子が南下して百済(紀元前18年建国)を作ったとされています。この時代、毛乙冬非または鉄円と呼ばれていました。その後高麗時代に鉄原に改められ現在に至ります。

地理的な条件のせいか、この地の歴史を見てみると、「鉄原」に改められた後も「州」に格上げされたり(東州と呼ばれました)、「県」の扱いになったり、「府」になったり。その後も京畿道鉄原になったり春川府鉄原になったり江原道鉄原になったり…。1896年8月4日勅令第36号によって江原道鉄原郡となって落ち着きます。時は朝鮮時代末期。高宗32年のことです。

鉄原の黄金時代

日本統治時代、鉄原は江原道に属していました。江原道の道庁所在地は春川。しかし、重要な港町である元山と京城を結ぶ交通の要所は鉄原。そのため、一時は春川をしのぐほどの栄え方をしたようです。国鉄の京元線に引き続き、1924年、鉄原から金化までの28.8kmの区間で金剛山電鉄が開通します。1931年には景勝地金剛山までの全区間(116.6km)を走り始めるのです。これによって、鉄原は、港町元山と京城(現在のソウル)、そして、景勝地金剛山を結ぶ要となり、ますます栄えたのでした。

修学旅行の定番となった金剛山観光。新婚旅行にも人気だったといいます。鉄原を基点とする金剛電鉄の切符は当時の平均月収の数か月分という金額だったものの、常に満員だったという逸話も残っています。多くの訪問客でにぎわい、鉄原郡の人口は10万人に。

1936年の資料で、鉄原を含む江原道の人口は153万人ほど。そのうち10万人ほどがここに住んでいたことになります。鉄原は、周囲の山々の溶岩によって作られた台地です。あたり一帯は玄武岩の産地。朝鮮半島の南側・現在の大韓民国の領内では済州島を除く唯一の玄武岩の産地だそうです。水も豊富で平らな土地に恵まれた鉄原は米の産地としても知られるようになってきます。

鉄原の暗黒時代

1945年。日本が戦争に負け、朝鮮半島から撤退します。その後すぐに朝鮮半島は北と南に分断されます。この時、38度線より北に位置していた鉄原は、金日成率いる朝鮮労働党の支配下にはいります。鉄原の町の中心部には労働党の庁舎が建てられ、北朝鮮の町の一つとなるわけです。

朝鮮労働党の鉄原労働党舎

徹底的な管理が始まります。鉄原郡の公式サイトによると、労働党がここを拠点に活動していた期間は5年。その間、大韓民国を支持する人々を逮捕拘留し、拷問や虐殺を繰り返したそうです。そのため、この建物に一度連れていかれた者は、死体か瀕死の状態でしか出てこられない、そんなふうに言われていたと伝えられています。鉄原、金化、平康、抱川など江原道の中で38度以北の村々を管轄統制していました。

そして、朝鮮戦争がはじまります。

停戦協定を有利に結べるかどうかのカギになったのが、38度線以北で韓国(南)側が抑えていた鉄原地区。両軍が激しくぶつかります。爆撃で周囲の山の形が変わるほどの激戦が繰り広げられます。

もちろん、市街地も例外ではありません。朝鮮戦争は凄惨な市街戦だったともいわれているように、山や野原での戦闘や空襲ももちろんありましたが、市街地で兵士たちが銃を持って撃ち合う、そういう戦争でした。激戦区鉄原の中心地鉄原市内もこの通り。

鉄原市のシンボルであった労働党舎もこのように無数の銃弾が撃ち込まれて廃墟と化します。住んでいた住民も殺され散らされ…。労働庁舎の前にあった鉄原市は壊滅します。そう、あれだけ賑わっていた都市が消えたのです。

60年経っても……

都市が消えるほどの死闘から60年が経ちました。かつて町の中心部として栄えた労働党舎前の平地に、今、住んでいる人はいません。ただ、ガマの穂が風に揺れるだけです。ガマの穂が茂る湿地の先にはコンクリートの柱が。再度、北朝鮮軍が攻めてきたときに道路を封鎖するためのものだそうです。

鉄原郡は4邑7面という行政単位で構成されていますが、そのうち、近東面、遠東面、遠南面、任南面の4つの面には誰も居住していないそうです。なぜならそこは軍事境界線だからです。同じく軍事境界線に沿って存在している近北面は52世帯109名が住んでいるだけ。この人たちは、村から出入りするたびに軍のチェックを受けるそうです。訪問客も限られ、親せき訪問も一人一人届け出が必要という生活をしているようです。

かつてにぎわった鉄原の町はかつての激戦の跡を見に来る観光客のバスと、付近の警戒に当たる軍人たちの姿のほかは人影のみえないところとなってしまいました。

鉄原の今

消えてしまった鉄原の町ですが、その後、車で40分ほど南下したところに新市街ができました。現在の鉄原郡庁は新鉄原と呼ばれる新市街に移動しています。新鉄原ができたことで戻ってきた人口が5万人。往時のにぎやかさは消えましたが、新しい生活は始まっているようです。ただし、こちらの新市街。付近に鉄道が走っていません。鉄道交通の要所だった京元線の鉄原駅は戦争で廃駅になり、鉄原駅の手前の駅「白馬高地」駅が韓国鉄道の北の終着点。しかし、そこからかなり離れた新市街は、長距離バスのターミナルが唯一の玄関口となっているのです。

「鉄馬は走りたがっている(철마는 달리고 싶다)」

京元線「白馬高地」駅。鉄馬つまり鉄道によって栄えた町の玄関口は、今は一日にたった10本ほどの鉄道を見送るだけ。鉄道の町は鉄道のない新市街でひっそりと命脈を保っているのでした。

半島の激動の歴史

以前アップした「国境ツアー」のスピンオフのような記事です。韓国に住んでいると、徴兵の話とか国境の話とか日本ではなかなか触れない話も見聞きします。ソウル市内にいても古い建物などには弾痕が残っていたりして、朝鮮戦争の激しさを知ることができます。が、鉄原は現在進行形でその悲惨さをひしひしと感じました。
写真は、労働党舎前の広場で開かれていたマルシェです。記事でも書きましたが、この付近、居住者はいないので、この市は観光客のためのもの。けれども、戦争で廃墟になった建物を背景に、ここで収穫された米や野菜や花が農業用のトラクターにあしらわれている構図が印象的でした。背景の廃墟が少しずつ遠くなって、トラクターの周りに緑があふれて、鉄原が戦争・国境の町ではなくどこにでもある普通の町になったらいいな、そうおもわせる風景でした。
半島の激動の歴史

この記事を書いた人

エナ

エナライター / エナツアー主催

横浜出身のソウルっ子。2000年から2002年、ワーホリ滞在。その後横浜での10年間を経て2011年、再度渡韓。本業は日本語教師。ソウルの町歩きが大好きなネイリスト。ソウルの博物館、市場が主な生息地。普通の町を普通じゃなく感じさせるエナツアーなるものを企画していました。最近は日本家屋の残る町にはまり気味。

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