頼朝・頼家・実朝? いいえ、こちらは義賢・義仲・義高の三代です。嵐山町は歴史の宝庫でした
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頼朝・頼家・実朝?いいえ、こちらは義賢・義仲・義高の三代です。嵐山町は歴史の宝庫

源氏三代といえば「源頼朝・頼家・実朝」のこと。しかし、もう一つの源氏三代の塚が埼玉県嵐山町にあります。源氏と在庁官人、中央と地方の様子がうかがえる、灼熱の埼玉に行ってきました。

帯刀先生・源義賢とは?

池袋から東武東上線で約1時間半。埼玉県比企郡嵐山町の畑の中に「源氏三代供養塔」の看板があります。

頼朝・頼家・実朝?いいえ、こちらは義賢・義仲・義高の三代です。嵐山町は歴史の宝庫


ここは、朝日将軍・源義仲(木曽義仲)の生誕の地なのです。義仲を語る前に、この地に生きた源氏と在庁官人との関わりについて見ていきたいと思います。

源頼朝の父・義朝はその父・為義の長男でしたが、どうやら嫡男の扱いは受けていなかったようです。代わりに嫡男だったのが、義朝のすぐ下の弟、次男の義賢(よしかた)です。さて、この義賢さん、おそらく十代のうちに当時の皇太子(近衛天皇)のSPのリーダーとなり「帯刀先生」と呼ばれます。

当時の藤原氏のトップ藤原頼長と親しくしていたという記録もありますが、父・為義と対立していた兄・義朝をけん制するため、1153年に関東に行きます。義賢は京都にいるときにすでに結婚していて、長男と妻を京都においての旅でした。関東に入った義賢(よしかた)はその地の有力者・秩父重隆(ちちぶしげたか)の養君(やしないぎみ)となり、秩父重隆の娘と結婚します。そしてこの地で次男・義仲が生まれます。

しかし、1155年。兄・義朝の長男である義賢の甥・義平が突然義賢の住まいである大蔵館を襲撃します。

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この時、義賢は義父・秩父重隆とともに討たれて亡くなります。しかし、この合戦のさなか、当時2歳だった義賢の次男・駒王丸(後の木曽義仲)は、義平軍にいた秩父重隆の甥である畠山重能などによって逃がされ、信濃の国の木曽に所領を持つ中原氏に預けられます。

朝日将軍・源義仲の生誕の地

木曽に逃げた駒王丸はその地で成長し、1180年、平氏打倒の令旨を受けて挙兵します。その後、破竹の勢いで進軍し、1184年には征東大将軍に任命されます。しかし、ご存じの通り、宇治川の戦いで従兄弟の源頼朝軍に負け、31年の短い生涯を終えます。

木曽で成長したため、一般に「木曽義仲」で知られる源義仲。彼自身は2歳の時にこの地を離れているのですが、義仲と比企郡の関係はそこで途絶えたわけではないようです。というのも、義仲が敗死した後、鎌倉で人質になっていた義仲の長男・義高が鎌倉から脱出しているのですが、彼が目指したのはここ、大蔵の地だともいわれています。というのは、義賢の義父で後盾だった秩父重隆は家督を孫に譲っていますが、この孫というのが[川越と河越、ふたつのカワゴエ物語]で書いた河越重頼なのです。そして、河越館の隣を流れる入間川のほとりで源義高はとらえられているのです。この時、義高は父親の生まれ故郷である比企の大蔵館を目指していたのではないかといわれています。

つはものどもがゆめのあと

東武東上線「嵐山」駅から15分ほど歩いたところに源氏三代の供養塔があります。

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鳥居の向こうには小さな祠があり、それが御廟堂のようです。そして、ちいさな道路を挟んで向かい側には、義賢ゆかりの人々の供養塔が建っています。

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源義賢を筆頭に

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息子の源義仲(木曽義仲)、


孫の源義高までの三代です。

あ、そうそう。義賢が京都に残していった長男ですが、彼は、父・義賢が大蔵合戦で亡くなると、親戚筋にあたる摂津源氏の源頼政に引き取られ、源仲家と名乗ります。源仲家は1180年、養父・源頼政が以仁王とともに挙兵したときに養父とともに討死しています。本人はこの地に来たことはなさそうですが、供養塔には仲家の名前もありました。

頼朝・頼家・実朝?いいえ、こちらは義賢・義仲・義高の三代です。嵐山町は歴史の宝庫


供養塔があったこの場所は周りが田畑に囲まれて特に目立つ建物がない場所でしたが、供養塔そしてこの「源氏三代」にまつわるエピソードなどが書かれたパネルはきちんと手入れがされていて、この土地に生きる人たちが今でも「源氏三代」を大切にしている様子を見ることができました。

大蔵合戦の時、敵方にいたにもかかわらず、幼子・駒王丸(源義仲)を助け出した畠山重能、祖父の遺志をついで主君(義賢)の孫・義高を受け入れようとしていた河越氏。そして、今でも大切に館跡や供養塔を守っている嵐山町の人々。縁を大切にしている土地に触れることができました。



●源氏三代供養塔

この記事を書いた人

エナ

エナライター / エナツアー主催

横浜出身のソウルっ子。2000年から2002年、ワーホリ滞在。その後横浜での10年間を経て2011年、再度渡韓。本業は日本語教師。ソウルの博物館、市場、路地が主な生息地。普通の町を普通じゃなく感じさせるエナツアーなるものを企画していました。最近は日本家屋の残る町にはまり気味。現在は本業の都合でソウルと山の中にある地方都市との二重生活中です。ソウルの穴場のお店や、地方とソウルで生活しながら見えてきたものなどをブログやSNSなどで紹介するのが趣味。

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