ここが、あの秀吉軍を撃退した伝説の船を製造したところです
韓国

豊臣秀吉軍と戦った朝鮮時代の将軍、李舜臣〈イ・スンシン〉将軍は、韓国を代表する英雄です。波乱万丈の人生を送ったイ・スンシン将軍の物語はドラマや映画にもなっています。

そんな英雄にゆかりの地が韓国の南の端にあります。場所は麗水〈ヨス〉。朝鮮半島最南端にある全羅南道〈チョンラナムド〉の南端にある市です。

豊臣秀吉軍と戦った朝鮮時代の将軍、李舜臣

韓国人に「有名な日本人は?」と聞いたらどんな答えが出てくるでしょう。ジャニーズの歌手だったり、俳優だったり、人気漫画家だったり、首相だったり……。日本人が思う以上に多様な日本人の名前が挙げられます。

で、その中に必ず出てくる異色の名前。それは豊臣秀吉です。韓国の歴史の中で、ある日突然攻めてきた豊臣秀吉の日本軍は、ひときわ強烈な印象を与えているのです。

第1次朝鮮出兵の時の元号をとって「壬申倭乱〈イムジンウェラン〉」と呼ばれ、豊臣秀吉または豊臣秀吉の韓国語読みの名前「プンシンスギル」とともに知らない韓国人はいないといっても過言ではありません。

さて、この豊臣秀吉軍と戦った朝鮮時代の将軍がいます。李舜臣〈イ・スンシン〉将軍です。波乱万丈の人生を送ったイ・スンシン将軍の物語はドラマや映画にもなり、この国を代表する英雄でもあります。

ソウル市内、メインの宮殿である景福宮〈キョンボックン〉の正門からまっすぐに伸びる大通り・セジョンノにある中央分離帯を使った公園の先頭に立っているのがまさにイ・スンシン将軍。

イ・スンシン将軍の号(ごう・字のこと)である忠武〈チュンム〉にちなんだ地名である忠武路〈チュンムロ〉は地下鉄4号線・明洞〈ミョンドン〉駅の隣の駅の名前になっています。

そんな英雄にゆかりの地が韓国の南の端にあります。場所は麗水〈ヨス〉。朝鮮半島最南端にある全羅南道〈チョンラナムド〉の南端にある市です。

風光明媚な都市~麗水


(麗水市旧市街にあるイスンシン将軍の像)

朝鮮半島を縦に半分に切った西側の先端、そこは全羅南道と呼ばれています。東隣には慶尚南道〈キョンサンナムド〉があります。慶尚南道のエリアで最も大きい都市はプサンでしょう。プサンは広域市に指定されているので厳密には慶尚南道ではないですけどね。

朝鮮半島の南端に位置する慶尚道(慶尚南道と慶尚北道)と全羅道(全羅南道と全羅北道)は古くから対立状態にあるといわれています。

いち早く経済発展や工業化した慶尚道側と比べ、全羅道地域は開発が遅れたといいます。代わりに食の全羅道といわれるようにおいしい食べ物の産地で知られています。

そんな全羅道の中でも慶尚道に近いあたりに麗水という都市があります。朝鮮半島の南の端は、非常に入り組んだ地形になっており、多島海とも呼ばれています。

その多島海に突き出る半島の1つ、その先に麗水という都市はあります。半島のつけ根に当たる順天(スンチョン)から海を左手に見ながらさらに南下すること30分、町が現れます。

(写真は麗水市サイトより)

麗水は2012年に万国博覧会が開かれ注目されるようになりました。その時に街を再整備し、ソウルからも高速鉄道で一気に来ることができるようになりました。

麗水市は人口約30万人。万博が開かれた旧市街とその手前に広がる新市街で構成されています。複雑な海岸線で縁取られているためどこに行っても海と島が見える、そんなところです。

新市街のリゾートホテルの前は史跡

人の多い旧市街側を避け、新市街にあるベイビューの宿を拠点に。ホテルからはたくさんの島と海が一望できます。そのホテルの目の前の海で、500年ほど前にあるものが作られていたのです。

それは、亀甲船ーカメのように甲羅に覆われた軍用の船です。海の備えが薄かった当時、イ・スンシン将軍は船の甲板にふたをしたような船を考案します。

そして、この亀甲船はイ・スンシン将軍の名とともに救国の英雄として韓国では語り継がれているのです。その伝説の軍船を含む当時の造船所の跡が史跡として残されています。

全羅線「ヨチョン」駅を基点とする新市街。麗水市役所を中心に飲食店と繁華街が広がり、その周りをマンション団地が取り巻くような街です。麗水市役所のすぐ南にはリゾートホテルの並ぶ公園があります。ホテルからは海が一望できます。

ホテルの目の前には海沿いを伝う道路があり、その先は海。海に点在する島々が複雑な地形を作っています。

この入り江は非常に複雑な形になっており、ホテルの前のこれもすでに入江なのですが、入江の東側がさらに奥に入り込んでいます。そして、ここが昔の造船所の後なのだそうです。

入りくんだ地形は天然のドッグ


ホテルの前の道を東に少し歩くと、こんな地形に。右側(西側)は水量たっぷりの入江ですが、左側(東側)は若干海底が露出しているような感じになり、何やら建物が1つ見えてきました。

もう少し歩くと、漢字で「船所」と。史跡公園になっています。この部分から、先ほどの入江の奥に回り込めます。

「堀江」。クルガンというハングル文字もありますが、漢字で書かれているのでわかりやすいです。下には、「亀甲船の製造と退避をさせた場所」となっています。この看板のすぐ横には、復元された、当時のドッグが見られます。

ちょうど引き潮ですべて露出していました。奥に見える緑のこんもりしたところが、先ほど「船所」と書いてある碑文があった公園です。入り江は南から北に伸び、そのあと東に入り込んでいるように見えましたが、ここではさらに南に引き込んでいたようです。

石造りの壁があり、引き潮の時ならここで船底までしっかり作業できそうです。また、満ち潮になると海水場入り込んでくるので、このまま出航できるんですね。

堀江の奥、陸地側には小道があり、何やら建築物が見られました。

どうやら、現場監督事務所のようです。現場責任者たちはここに住み込んで船の製造やメインテナンスに携わったのでしょう。

ここで作られた船は亀甲船一艘ではありません。

海の中にはこのような石の柱も発見しました。船をつなぎ留めておくための杭です。入り組んだ地形、外からは分かりにくいこの地形を利用して、一時退避から、迎撃のための配備、壊れた船の修理などなど、在りし日はさぞにぎやかだったことでしょう。

これだけの設備があるところには職人村があったはずです。入り江の先、この広く開けたところに、職人さんたちの町が形成されていたのだとか……。

今は、船が作られることもなく、地元の人や観光客の散歩や憩いの場になっています。

この記事を書いた人

エナ

エナライター / エナツアー主催

横浜出身のソウルっ子。2000年から2002年、ワーホリ滞在。その後横浜での10年間を経て2011年、再度渡韓。本業は日本語教師。ソウルの町歩きが大好きなネイリスト。ソウルの博物館、市場が主な生息地。普通の町を普通じゃなく感じさせるエナツアーなるものを企画していました。最近は日本家屋の残る町にはまり気味。

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