ウズベキスタン共和国はいわゆる「若い」国である。1991年にソビエト連邦から独立して今年(2017年)でまだ26年しか経っていない。
独立までには複雑な歴史を歩んできているのだが、中でもロシア帝国からソ連時代にウズベキスタンの人々が受けた「抑圧」について知ることができるのが「抑圧犠牲者の博物館」である。
独立後の2002年に開館し、ソ連(ロシア)からの決別を象徴しているともいわれ、ウズベキスタンが過去の出来事をどのように受け止めているのかを感じることができる、中央アジアでは非常に珍しい博物館である。
「グレート・ゲーム」と大国による支配の歴史
前述したように、ウズベキスタン共和国(Republic of Uzbekistan)という名称になってからまだ26年、ほぼ現在と同じ国境が画定されたのは、1924年にウズベク・ソビエト社会主義共和国となってからなので、まだ1世紀にも満たない。
それ以前の中央アジアは19世紀前半ごろから、ロシア帝国と英国との勢力争いであるいわゆる「グレート・ゲーム」に巻き込まれ、ロシア帝国によって段階的に征服されていく。
そして1867年にタシケント(現在ウズベキスタンの首都)にトルキスタン総督府が設置されたことをきっかけに、ロシア帝国による植民地統治が開始された(外務省ホームページ)。
トルキスタン総督府とは、ロシア帝国が中央アジア南部定住民地域統治のために設置した行政府で、ロシア革命後にはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国として、中央アジア初のソビエト共和国となった地域のことである(外務省HP、「中央ユーラシアを知る事典」)。
その後、ドイツの台頭により英露両国の利害が一致し、1907年に英露協商を締結、「グレート・ゲーム」は事実上の終結を見た(「中央ユーラシアを知る事典」)。
これらの帝国に対して、現地の人々も決して受動的なだけではなく、ロシア帝国や清朝のような大国と交渉しながら自立性を保った地域もあったという(「外交」2015, vol34)。
そして1917年に起きたロシア革命(二月革命、十月革命)によりロシア帝国が崩壊し、前述したトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国を含む、各地域にソビエト政権が誕生したことを前提として、1922年にソビエト連邦が成立(「中央ユーラシアを知る事典」)、1924年に中央アジア民族・共和国国境介画定により、ウズベク・ソビエト社会主義共和国が設立した。
このロシア帝国からソ連時代にかけて、ウズベキスタンの人々が受けた「抑圧」について展示しているのがこの「抑圧犠牲者の博物館」である。
一見すると博物館とはすぐにわからない外観で、ここから「抑圧」という言葉は連想できない。過去にも訪れているが、昨年(2016年)に訪問した際には、博物館にいる英語のガイドを雇い館内を案内してもらった(博物館の写真はそれ以前に撮影したものだが建物は同じ)。
ガイドによると、ここは収容所の跡地で、1937年から1953年までの約15年間で7,000人以上の人々が銃殺され、近くにある橋は「devil’s bridge」と呼ばれたという。この地を自由、正義、人権などのシンボルとするために博物館を建設したそうだ。
人々による抵抗
ロシア帝国やソビエト政府によって支配されてきた人々だったが、前述したように、人々はただ黙って従ってきたわけではなかった。上の写真は1918年から1924年までに、抑圧に対して武力蜂起した地域の地図。
これらは「バスマチ(攻撃者)運動」といわれる、中央アジアでほぼ同時期に発生した反ソビエト武力運動で、ロシア革命直後から1930年ごろまで続いた(「中央アジアを知るための60章」より)。
この運動は、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国成立以前に存在した、トルキスタン自治政府の本部があったコーカンド旧市街(ウズベキスタン東部フェルガナ)において、ソビエト政府によって住民が虐殺され、市街全体が破壊されたことをきっかけに顕在化した(「中央アジアを知るための60章」)。
ソ連時代には反革命として否定的に評価されていたが、独立後に見直されて「独立主義運動」とされ、運動の参加者たちを英雄視する動きも生まれていった(「中央ユーラシアを知る事典」)。
スターリンの大粛清
1936年から1938年にかけて、旧ソ連国内で大規模な粛清が行われた。一般的にスターリンの大粛清(「大テロル」とも呼ばれる)として有名だが、ウズベキスタンの人々もその粛清の対象となった。
1953年にスターリンが死亡するまで続いたといわれ、ウズベキスタンでも多くの知識人や政治家、有力者などが殺害されたという。「中央ユーラシアを知る事典」によると、粛清の規模は、逮捕者250万人(確認できるだけで)、獄死16万84人、処刑68万1692人、合計84万1776人となっている。
ちなみにこの数字は、ゴルバチョフ政権下で行われたペレストロイカ(改組、再建、改革などの意)以降に公開された情報を基に出されており、正確な数字に最も近いとされている。
写真は、当時、人々への取り締まりを行っていたNKVD(内務人民委員部)が使用していた車。犠牲となった人々の血の色を象徴して、タイヤを赤く染色している。
車輪の下には、ソ連政府によって「人民の敵」とされた人々に関する当時の新聞記事が。ガイドによると、彼らのほとんどが銃殺刑に処されたという。
スターリンの署名入りの処刑者リスト。
強制労働のために移送された収容所の模型。
旧ソ連邦に存在した強制収容所の地図。
収容所に収監された同一人物の写真。8年間の収容所生活で老人のようになってしまっている。
様々な「抑圧」①強制移住
スターリンによって、ドイツと日本の潜在的なスパイと危険視された人々が、ソ連邦の東西国境付近から中央アジアに強制移住させられた。
強制移住させられた朝鮮の人々。彼らが背負った歴史はその子孫にも様々な影響を及ぼしている。
この時、当時の満州国境付近に定住していた約17万2,000人(「中央アジアの朝鮮人」)の朝鮮民族が、数回に分けて中央アジアに移住させられた。現在でも彼らの子孫がウズベキスタン国内で生活しているが、近年は韓国へ出稼ぎ(移住)する人々も少なくない。
ゆえに、韓国とウズベキスタンとの経済的な交流は比較的活発であり、韓国語を学ぶ学生も多い。タシケント市内には多くのコリアンレストランがあって、滞在中に日本食が恋しくなった時は大変お世話になった。
②綿花栽培政策~アラル海「船の墓場」を作った要因
数多くの展示の中で特に興味深かったのは、現在でもウズベキスタンの主要な産業となっている綿花栽培についての展示である。
ソビエト政府による綿花栽培政策(コットン・モノカルチャー;綿花単一作物栽培)が、「抑圧」のひとつとして展示されている。ガイドによると、ソ連全体の生産量の約7割をウズベキスタンが賄い、農薬などの有害物質が人々を蝕んだ。
そして、綿花栽培に大量の水が必要であったため、アラル海に流れ込む水量が減少し、世界で4番目に大きいとされていた湖は消滅の危機に瀕している。
ウズベキスタンはユーラシア大陸の中心にほど近く、世界でも稀な二重内陸国だ。四方を海に囲まれている日本とは正反対といってもよい環境である。古来より東西南北の人々がこの地を往来し、人や物品のみならず、言語、宗教、文化がこの地を通じて広まり、時に融合していった。
ガイドによると、現在のウズベキスタンには130以上の民族が混在し、どの民族も平等に暮らしているという。宗教や民族で差別されず、男女差別もないと彼が言った時には、思わず「本当??」と突っ込んでしまったのだが、確かに言語に関しては、公用語であるウズベク語を他民族に強制する様子は私の経験上、感じられなかった。
民族に関わらず、3か国語、4か国語を操る人は稀ではないが、特定の言語を無理に学ばされる様子を見たことは今のところない(ソ連時代はまた別であるが)。
他民族の人々にとって、ウズベク語が理解できないと疎外感を感じる時があるかもしれないが(またはロシア語ができなくて疎外感を感じている人々もいるかもしれないが)、特に首都のタシケントでは、ロシア語のみで生活している人々も少なくない。
様々な民族の共存が実現していると感じる人々がいる一方で、「抑圧」を受けたソ連時代を知る高齢者の中には、医療を無料で受けられ、民族にかかわらずみな「ソ連人」だった時代の方が良かったと語る人が少なからずいることも事実であり、人々の感じ方は実に多様である。
日本に住んでいるとそんな国の歴史、特に「抑圧」の歴史に触れる機会はなかなかないのかもしれないが、時に広大な大陸に住む人々の生活に思いをはせ、想像力を働かせることも一興かもしれない。
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