タイ王国の特集

「シベリア抑留」を知ろう。ウズベキスタンにある日本人の「記憶」を探して
ウズベキスタン

1945年に第二次世界大戦が終了してから70年以上が過ぎ、当時を語ることができる当事者の方々が減少している。私の周囲でもそうだ。戦争の「記憶」の風化を肌で感じる日々であるが、シベリア抑留の「記憶」もそのひとつ。

今回は中央アジアのウズベキスタンで、その「記憶」に触れることができるスポットをご案内したい。

シベリア抑留とは

1945年8月9日(ソ連時間で8月8日)、当時のソ連は、1941年に締結された日ソ中立条約(有効期限5年間)を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、主にユーラシア大陸東部等にいた日本人(軍人である関東軍が主であったが、民間人や女性も含まれていた)を捕虜として、長期にわたってソ連邦のほぼ全域で強制労働させた(約2~11年)。

いわゆる「シベリア抑留」として知られているが、その抑留先はモスクワやウクライナなどにも及んでいることから、「ユーラシア抑留」と呼ぶ人もいる。厚生労働省によると、抑留者数は推定約575,000人、死亡者数は推定約55,000人で、実に10人に1人の死亡率であったとされている(厚生労働省HP)。

しかしこの数字はあくまでも推定であって、実際はさらに多いと推測する研究者も少なくない。

ウズベキスタンの日本人墓地

当時、ソ連邦の一共和国であったウズベキスタンもその抑留地であったが、ウズベキスタンでは比較的死亡率が低かった。抑留者数は推定約20,000名(25,000名以上という資料もある)、うち812名が亡くなったとされている(ウズベキスタン対外友好協会連合会提供資料より。厚生労働省の記録には死亡者1,008名となっているが、私の調査によると、墓地の移転や統合による重複分が含まれていると考えられる)。

1947年に報告された「ソ連引揚者の栄養調査」によると、中央アジアは極寒の地域に比べて気候が温暖であったことがその要因のひとつとされている。

そしてソ連時代、彼らの墓地整備を始めたのが、私の父が理事長を務める福島県にあるNGO、福島県ウズベキスタン文化経済交流協会(当時、日ソ親善協会福島県支部)だった。
福島県に住む遺族からの依頼をきっかけに、1983年にこの地に日本人墓地があることを知り、1987年に墓地整備を決意し募金活動を始めた。

日ソ両国がこの問題に触れたがらなかったソ連時代、ウズベキスタンの有志と日本のNGOが友情を築き上げ、様々な障害を乗り越えて、1990年5月23日に除幕式を迎えることができたのである。その墓地は、タシケント市のヤッカサライという地区の共同墓地にある。
ウズベキスタン
この墓地の入り口からかなり奥にあるのだが、ガイドブックにも掲載されているため、日本人観光客も多く訪れている。

ヤッカサライの日本人墓地

ウズベキスタン
日本人墓地のすぐ近くにドイツ人墓地もある。ここに訪れた際には、ぜひこちらもお気に留めていただきたい。

モニュメントに込められた思い

父は、「ウズベクがソ連時代に墓地整備(「鎮魂の碑」建立)に協力し、福島との関係がより一層深くなったことが、その後の日ソ(日ウズ)間の関係構築に大きな影響を与えたのではないかと思う」と、ソ連時代に行われたモニュメント建立の意義について語っている。
ウズベキスタン
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ここに建立されたモニュメントには「永遠の平和と友好、不戦の誓いの碑」(日本語とロシア語)と刻まれ、日本に向かって合掌するように設計されている。当時、この「不戦」という文字を刻むことも簡単ではなかったというが、父はこの言葉にこだわった。
ウズベキスタン
この墓地は1995年に再整備され、ウズベキスタン国内で確認されている全日本人墓地をここで想起することができるようになった。それぞれの墓地から土を採取して、ここに埋葬している。

ウズベキスタン全土の墓地を整備

そして2002年、ウズベキスタンにある全ての日本人墓地を整備し、日本人が関わった工場などにも記念碑を建立した。この時は、当時の在ウズベキスタン大使であった中山恭子氏が中心となり、我々のNGOや企業など、多くの人々が協働して、ウズベキスタン国内全土に及ぶ大規模な墓地整備・記念碑建立事業となった。
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こちらはその際に、タシケント郊外のチルチクに建立した農業機械工場にある記念碑。抑留者の方々がどのような労働を行ったかが刻まれている。工場の敷地内に建立されているため、残念ながら許可を得ない限り、自由に見に行くことはできない。
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同じく2002年に建立された記念碑。日本庭園近くにあって、こちらは自由に見学することが可能。
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隣に日本政府が建立した記念碑もある。こちらは建立事業の翌年2003年9月に建立されている。

日本庭園近くにある記念碑

モニュメント化した劇場

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そしてもう一カ所、日本人抑留者と深い関わりのある場所がここ。

ナヴァーイー記念国立オペラ・バレエ・アカデミー大劇場(「中央ユーラシアを知る事典」より引用、私たちは「ナヴォイ劇場」と呼ぶことが多い)は、日本人抑留者が建設に貢献したと語り継がれている劇場である。

建設当時から日本人の勤勉さが地元民の間で指摘されていたようであるが、その逸話が広まるきっかけとなったのが、1966年にタシケントを襲った大地震だった。市内の建物がことごとく崩壊する中、この劇場が倒壊を免れたことがきっかけとなって、「日本人が建設に携わったから倒れなかった」というような噂がどこからともなく広まっていったようである。

そして1991年、ウズベキスタン共和国としてソ連邦から独立後、初代大統領に就任したイスラム・カリモフ大統領は、ナヴォイ劇場の外壁に、日本人が建設に携わったという証をプレートにして設置することを決断した。
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プレートの設置は、1994年に日本がこの劇場への無償協力を行った後であったため、その御礼であったとも言われている。

「1945年から1946年にかけて 極東から強制移送された 数百名の日本国民が、 このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の 建設に参加し、その完成に貢献した」(スペースは改行箇所)と刻まれている。

昨年(2016年)の9月2日亡くなったカリモフ大統領が、「決して日本人捕虜という表記は使うな。このプレートは永遠に続く。日本とウズベキスタンは一度も戦争をしたことがない。そこに『捕虜』があるはずがない」(日本ウズベキスタン協会編集「追憶ナボイ劇場建設の記録」より)と決断したため、捕虜ではなく「日本国民」と刻まれている。

そして一昨年(2015年)の10月、安倍首相が来訪するタイミングに合わせ、プレートがリニューアルされた(それまで劇場は修復中でもあった)。
ウズベキスタン
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以前よりかなり大きく、豪華になっている。この劇場(プレート)は、日本とウズベキスタン友好のシンボル的存在といっても過言ではないだろう。

ナヴァーイー記念国立オペラ・バレエ・アカデミー大劇場



現在、ウズベキスタンで語り継がれている日本人抑留者の方たちは、この地で多くの仕事に従事し、現地の人々と交流を持った。中には、現地の女性と恋に落ちた方もいたようである。彼らは不本意な環境の中でも必死に生きた。

私は今、これらの「記憶」と、墓地やモニュメント化した劇場について研究することで「記憶」の風化と闘っている。もし、この美しく整備された墓地や劇場に訪れる機会を持たれたならば、亡くなられた方々のことはもちろん、その「記憶」を継承しようとした多くの人々の思いに触れていただきたい。この記事がそのきっかけとなるのであれば、この上ない喜びである。

当時の恋愛事情

本文でも少し触れたが、ウズベキスタンに抑留されていた方々から語られる話のひとつに、現地の女性たちとの恋物語がある。
ある方の証言によると、勤勉で優秀な日本人男性は、現地の人々に人気があったそうだ。ウズベキスタンでは当時、成人男性の約3分の2に相当する100万人以上が従軍し、約30万人が戦死したとされており、そのインパクトは、労働力不足はもちろん、家族形成にも少なからず影響を与えたと推察される。女性が外に出て責任のある仕事に従事しているケースも多く、交流の頻度は収容環境によって違いがあるが、一部の地域では出会いの機会も少なくなかったようだ。中には現地の女性と結婚まで考えたという証言や、帰国後60年以上経ってから、女性のご子息に再会された方もいる。こういった経験をされた元抑留者の方々は口々に感謝の念を語っている。過酷な境遇の中で、彼女たちの存在がどれほど大きなものだったか……ゆえに、悲惨な記憶だけでなく、このようなエピソードも伝えていきたいと思うのだ。

この記事を書いた人

YUKIMI

YUKIMIウズベキスタン研究者

福島県生まれ。NGO勤務などを経て、3.11の震災をきっかけに大学院に入学、現在は記憶の継承について研究中。約1年間、ウズベキスタン共和国に留学経験あり。思い立ったらすぐ行動してしまうため、活発でじっとしていられない性格に見られがちだが、読書と妄想に耽ることもしばしば。一家揃って大の酒好き。

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