あと2年で平成が終わる。と言われています。
平成が終わる理由は、今の天皇陛下である明仁天皇が平成30年、在位30年を節目として生前退位を望まれているためです。
平成も振り返れば28年です。少し前なら平成生まれと昭和生まれと分けられ、ウェブコンテンツ記事にはたびたび、「平成生まれにはわからない」というような文言のタイトルを目にしていました。
しかし、いまではミレニアム世代といわれる世代が誕生し、平成も終わりに近づいている様子を見ると、昭和が歴史として捉えられているような気がします。
多くの人々にとっては、生きてきた時代が歴史となるのは正直実感ないと思います。
しかし、今の生活が幼いころより様変わりしていることは、気が付かないうちに時間は歴史として蓄積されているということかもしれません。
今回訪れた北名古屋市にある昭和日常博物館は、私たちが暮らしている日常の元、礎を展示している博物館です。
当たり前の日常ができた時代
博物館に入るとオート三輪が出迎えてくれました。
このオート三輪は1930年代から1950年代に隆盛を誇り、展示されていたオート三輪はマツダのK360(たぶん)です。
先行でダイハツがミゼットが発売され、著者の両親には馴染み深い乗り物らしいです。
最初にこのオート三輪の展示物を見た時、著者は昭和の端っこの端っこ生まれたけれど、昭和を生きたわけじゃないなと思いました。よって、正直、懐かしいといった懐古主義的な感情も、ノスタルジックな気分にも浸れませんでした。
昭和時代にはできたことの一つに、子供だけで煙草を購入するというものがありますが、平成でもそれはできました。
昭和の常識だったことが平成の非常識になったことはよく言われていますが、逆もあります。
例えば、女性の進学率や男女の初婚年齢の平均が上がったといったもの。いい大人がジャージなどのラフすぎる格好で外出するというのも、平成に入ってから常識的になったと思います。
しかし、昭和という時代は、朝インスタントコーヒーを淹れ、パンをトースターで焼き、掃除機で掃除をし洗濯機を回し。といった今の「当たり前」の日常ができた時代だったのかもしれません。
要するに、今の生活の規範が昭和に作られたと思います。
潜在的に配置してしまう、家具のレイアウト
昭和日常博物館では、昭和の時代の生活様式をそのまま展示されているものがあり、「今」と比較してみると、興味深いことに気が付きます。
部屋の真ん中にベッドを置いても別に構わないと思いますが、何故かベッドをはじめとした家具を壁に沿って配置するものだと思い込んでいます。
展示を見るとこれらの思い込みは、昭和に出来上がったことがわかります。
また、当たり前のように制服を長押(なげし)に引っ掛けていました。長押とはワンピースをかけているところです。
我が家でも長押に画鋲で世界地図を貼り付けていました。
小学校に上がる前は、ひらがなやカタカナの五十音順表が地図の横に張り付けてあり、いつの間にか地図がなくなって掛け算表なんかが、代わりに張り付けてありました。
地図がなくなったのは、ソ連が崩壊したからかもしれません。物心つくと、地図とは自分の国を中心に描かれていることを知って、驚愕したことを覚えています。
今の新築住宅には見かけませんが、母方の親戚のお宅に応接間がありました。
そこのお宅のお嫁さん。と言っても母の叔母ぐらいの年でしたが、東京辺りから嫁いだ方で、そのような背景と相まって、過疎が深刻になっているド田舎に応接間があるのは、文化水準が高い家庭のような気がしました。
畳の客間とは違い、応接間というものは、ソファの応接セットにティーセットやグラスなどが入ったキャビネット。
ステレオセットに雑誌を収納するマガジンラックなどがあり、今のリビングの原型だとわかります。
応接室は洋式生活の始まりの象徴であって、今ではリビングが応接間を兼ねるようになりました。
しかし、個人的に応接室があるお宅は、先に書いたこともあってかは文化的な感じがします。
ダイニングというキッチンのすぐ横の空間で、いつの間にかそこで家族団らんを営むようになりました。
展示では床に直接座って食事をとっていますが、椅子とテーブルのダイニングセットを置くようになり、ダイニングという空間は洋式生活を送るための新しい空間なのかもしれません。
愛すべき日用品
どうしても捨てられないものというものがあります。
年末の大掃除や引っ越しを区切りにして、思い切って捨ててもいいのに、人生の後をついて来るみたいになぜかずっと持っているものがあります。
それらは大体、他人にとっては取るに足らない日用品で、でも思い入れがあるものです。
修学旅行のお土産や消耗品ならば入れ物などを、鳥が巣を作るみたいに少しづつ増えていった愛おしいものだちです。
我が家のレコードプレイヤーは著者が生まれてすぐに、兄が針を落としたいと駄々をこね壊したそうです。よって、聞けないのにレコードはとってあります。
以前、勤めていた会社の新卒の男の子に、「レコードって聞けるんですか?」と聞かれ、衝撃を受けました。これがジェネレーションギャップだったんだと。
音楽のデジタル化が進み、ターンテーブルを使用するDJも、アナログDJと呼ばれる時代になっていますが、各レーベルは音源としてレコードを発売していますし、真空管アンプの愛好者はいます。
昭和と平成の音楽の扱い方を見ても、昭和では限られた方法しかなかったけれど、平成ではその方法が圧倒的に増えている気がします。
いつの間にかフィルムカメラが消えてしまいました。
先日、フィルムをAmazonで検索すると驚くぐらい値段が跳ね上がっていました。
デジタルカメラやケータイのカメラが増え、写真を現像する必要はなくなり、今振り返ってみると撮影するにも、写真を見るにもお金がかかっていたことに気が付きました。
歯は朝と夜磨くといった人が多いと思います。
当たり前の習慣の道具は、当たり前にチューブに歯磨き粉が入っているわけではありません。
缶や瓶に入っていて、形状も歯磨き粉の由来を納得できるパウダー状とパッケージに書かれてあります。「潤性」と書いてあるので、今のペースト状のものと変わらないのかも。
珍しいのは化粧品会社として名高い資生堂が歯磨き粉を発売していることです。
オレンジ色の缶が特徴的な花王のカミソリ用粉石けんは、今でも販売していました。業務用と書いてあったので、理容室で使われているようです。
今ではガスが入ったフォームタイプが主流になっており、シェービングカップで泡立てるというのも見なくなりました。
理容室から帰ってきた父のシェービングローションやカルタムパウダーの、艶っぽい香りが好きでした。
食卓のでき方
銀シャリ、納豆、焼き魚に味噌汁……。これは日本人が理想とする朝食だと思います。
しかし、著者はもうずっとトーストとコーヒーです。百歩譲ってトーストを外してもいいのですが、コーヒーは外せません。
朝にコーヒーを飲む。つまり、家庭でコーヒーを楽しめるようになったのは、インスタントコーヒーのおかげです。
これによって、家庭でのコーヒー消費が増えたのは言うまでもありません。朝だけではなく、夕食後の団欒もコーヒーになりました。インスタントコーヒーは日本に新しい習慣を作った気がします。
日本茶よりも紅茶とコーヒー。
紅茶もインスタント同様、ティーバッグが出てきたので手軽に楽しめるようになりました。
魔法瓶が普及した背景にも、インスタントコーヒーがあるような気がします。
定番お菓子・定番家庭料理
向田邦子のエッセイの中にたびたびキャラメルが登場します。
台湾統治下時代の台北で、日本人が発売した新高(にいたか)バナナキャラメルといった、今では知っている人がほとんどいないキャラメルの話から、発売からパッケージが変わらず、キャラメルの代名詞となった森永ミルクキャラメルの話も出てきます。
彼女の数あるキャラメルエッセイの一つに、グリコキャラメルの方が形がかわいらしく、おまけもついているためそっちがほしかったが、父親に「菓子もほしい、玩具もほしいとはさもしい了見だ」と叱られたといったものがあります。
向田邦子氏いわく、父親は森永ミルクキャラメルの形のように四角四面だったといいます。
個人的にはグリコのキャラメルよりもぐしゃっとした球体の成り損ないの形をした、白い練乳のキャラメルのようなお菓子、ミルキーが大好きでした。
口に入れてすぐに柔らかくならないのに、いつの間にかねっとりと柔らかくなって、柔らかくなったミルキーが歯の詰め物を搔っ攫って行きました。ミルキーは恐怖の食べ物ですが、今でも好きです。
国民食と言われるカレー。
「みんな大好き」といいますが、嫌いな人間だっています。それが著者です。食べられないというわけではなく、色々嫌な思い出がついて回るのです。作り置きしやすいせいか、母が用事で家を離れる時などカレーが用意されていました。
また、初めて作ったとき人参やジャガイモがきちんと煮えてなくて、芯が残っている上に、ルウが溶けてない……。
そのような失敗を揚げ足を取られたりしたので、カレーについていい思い出がありません。
しかし、いつの頃かも忘れてしまった幼いころ、祖父が雑貨屋のようなお店でレトルトカレーを買ってくれたことをほんのり覚えています。当時のパッケージは円が重なった(ボンカレーのホームページをみると、円は「おいしさ三重丸」からきているようです)もので、松山容子さんのパッケージではありませんでした。
当時、エスビー食品から「カレーの王子様」というカレールウが発売されていて、カレーといえば「カレーの王子様」でした。
刺激物は子供にはよくないと母は考えていましたが、祖父にそんなこと知ったことではなく、大人と同じ食べ物を食べられた。という高揚感は心の隅に残っています。カレーにまつわる数少ないいい思い出です。
エスビーのカレー粉の缶は昔から変わってませんね。
気になる台所事情
人様の冷蔵庫の中は気になるものです。
それは、台所事情を知ることができるからかもしれません。博物館には当時の台所事情を知ることができる資料も展示されています。
昭和30年代に入ると、所得が右肩上がりに伸びていきます。その辺りから、新婚旅行といった、今では当たり前とされるような習慣が出来上がっていきます。
大塚家具といった家具業界が婚礼家具をセット販売したのもこの時期辺りだと思います。婚礼家具のセット販売のパイオニア的な大塚家具は、そのような販売路線をやめ、現在は混迷状態が続いています。
特に昭和34年(1959年)は尺貫法が廃止され、今の天皇陛下が美智子妃のご成婚がありました。
それをテレビ中継されたため、テレビが売れに売れました。テレビの普及台数は前年度が91万台に対して、200万台を突破するほど。その他のテレビの普及率を上げる切っ掛けになったものとして、1964年の東京五輪があります。
昭和日常博物館の資料には、日本三大都市別の1カ月の世帯収入と消費支出があり、意外なことに大阪市よりも名古屋市の収入が多いとのこと。その背景は詳しくはわかりませんでしたが、愛知県は工業が盛んなのでそれが理由かもしれません。
また、昭和34年のある一家の家計収支を見てみると、交際費と教養娯楽費の合計が住居費よりも多く、驚きました。
今ではそれらの項目を削り、住居費に充てる家庭も多いと思います。そして、「夫のこづかい」といった項目はなく、当時のお父さんの懐事情はどんなものだったのでしょうか? 謎です。
唯一懐かしいと感じたもの。
著者が唯一懐かしいと感じたものが、赤ちゃん用品でした。
昭和の端っこ生まれなので、赤ん坊の時した昭和を生きていないからか、赤ちゃん用品が懐かしく感じるのは当たり前かもしれません。
写真のバンビのモビールがとても印象に残っていて、年の近いいとこ達の家にもあった気がします。
なので平成のはじめにも使われていたのかもしれません。
このモビールはつり下げて、下を引っ張ると音楽が流れて、赤ん坊をあやすといったシステマチックなものだったような気がします。
それよりも、薄いビニールのような感触が面白く、握って遊んだ思い出があります。調べてみるとセルロイド製だそうで、なかなか身近にない素材だったかもしれません。
今でもお世話になっているベビーパウダー。
ドラッグストアでベビーパウダーの容器が売っていますが、えらくコンパクトになりました。
夏になると薄い緑色ぐらいの大きさの容器から豪快にベビーパウダーをはたいてもらい、あの儚げな香りに包まれていました。
ある一定年齢以上になると、ベビーパウダーを天花粉といいますね。
家庭の足。マイカー
かつて渡り鳥だった小林旭の代表曲に「自動車ショー歌」というものがあります。
度々、カバーされているので、ご存知の方も多いと思いますが、これは、歌詞に車種や車メーカーが駄洒落的に使われている歌謡曲です。
昭和日常博物館の地下では、その歌詞に使われた車が常設展示されています。
車というと流通か富裕層の乗り物といったものでしたが、所得が上がると手に入れやすくなり、自家用車を持つ家庭が増加していきました。車が新しい必需品となっていった背景として所得が上がったというのもありますが、名神高速道路や東名高速道路の整備も大きな理由だと思います。
日本を縦断できる高速道路の整備は、物流だけではなく家族旅行といったレジャーにも大きな影響を与えました。
トヨタのコロナ。
ブルーバードと言いながら、青くはないです。
西部警察で活躍したセドリックと「いつかはクラウン」のキャッチコピーで有名なトヨタ・クラウン。
いつの間にか我が家はトヨタ・プリウスに乗っています。
元祖軽自動車。丸みを帯びた形が特徴的で、「てんとう虫」と呼ばれていたそうです。
こち亀の富豪警察官・中川圭一巡査も所有しています。富豪のハートもがっちりつかんでいます。
本田技研工業が開発・発売している世界最高傑作の小型オートバイです。
エンジンオイルの代わりに食用油を代用しても大丈夫といわれ、高い性能から世界で最も売れたバイクと言われています。今でも記録更新中。
日本国内はもちろん、発展途上国の流通を支え、紛争真っ只中の地域も走っているオートバイ、それがスーパーカブです。
おわりに
64年続いた昭和には様々な事件、事故、戦争など、従来の価値観を根底から覆すようなことが切れ目なく続きました。
そのような角度から昭和を捉えると、昭和という時代が激動だという様子が伺えますが、日常に注目してみると今の生活の原風景が、作られた時代だということもわかります。日常というのは人間の幸福を営む場所だと思い知らされたような気がします。
今回は個人的な思い出を交えて記事を作成してみましたが、年配者の方は特に思い入れが強いものばかりだと思います。昭和日常博物館では年配者の回想法という、年配者の閉じこもりや痴呆防止といった活動も行っています。
昭和日常博物館で思い出話を楽しんでみてはいかがでしょうか?