逃げたあの人を追いかけて、やってきたのは横浜。旅の終わりと言いたいところですが、近代建築の旅の話を書き始めようと思います。
街は人間のように移り変わります。横浜市は開港してから貿易港として栄えたので、いち早く外国の文化も入ってきました。それは既存の文化を一新させるもので、横浜市には次々と西洋建築が建てられていき、それがまだ残っています。
横浜市には歴史的な近代建築の側や近くに、気にも止めない無名のビルなんかが建っていたりして、それが横浜らしい美しい景観を生み出し、街角には遠い日の遠い異国の香りが漂っているようにも感じます。
そんな香りに誘われて、ふらふらと気ままに目についた近代建築巡りをしてきました。
横浜のクィーンとキング
今では日本で2番目に高い建築物、横浜ラウンドマークタワーが建つ60年ほど前に、塔のある建物が3棟が竣工しました。外国船はその塔を目印に、横浜港に入港したと言われています。
外国人の船員たちはそれぞれの塔に、キング、クィーン、ジャックとトランプから引用した愛称をつけました。
それらは、今では決して高い建物とは言えなくなりましたが、横浜港から棟が見えるそうです。しかし、著者はジャックを見落としてしまいました。
横浜のクィーン
異人さんに連れていかれた女の子は赤い靴を履いていました。その女の子の像がある山下公園を赤レンガ倉庫に向かって歩いていると、象の鼻パークに出るのですが、その前を歩いていると、すらりとした細身の女性のような塔が印象的な建物を見ました。
その塔には緑寄りの青い球体があり、それがこの建物をモスクのような神聖な建物に見せています。
この建物は横浜税関庁舎で、象の鼻パークの前から見るとモスクの塔を中心に、左右対称にして横浜税関庁舎が建っていることがわかります。この横浜税関庁舎は横浜3塔の1つ、クィーンの塔と呼ばれ、1934年に竣工されました。当時は横浜で最も高い建物でした。クィーンにふさわしい優美な佇まいが、何とも言えない存在感があります。
横浜のキング
ニューヨークのエンパイヤーステートビルのような、直線的で細かで荘厳な装飾を施した建物は、キングの塔と呼ばれる神奈川県庁本庁舎です。クィーンの塔の横浜税関庁舎と同じように左右対称に建ており、西洋の美意識が反映されていることを伺えます。
その一方で、屋根部分が和風の感じがします。これは、帝冠様式と呼ばれるもので建物の和洋折衷。日本的だとすぐにわかる建築様式です。
キングは全体的に古風な外観をしているような感じを受けます。
クィーンの背が高い理由とジャックを見落とした理由
キングよりもクィーンの方が高いです。クィーンを建てる当初の計画では47mでした。その計画で竣工するとキングの方が高いのです。(キングの塔は塔屋部分を含め48.6m)
しかし、当時の税関長が「横浜港は日本の玄関であり、その税関庁舎ならば高くすべき」という意見から4m高くなり、塔屋部分を含め51mと横浜三塔の中で最も高くなりました。国と県の関係を浮き彫りになったエピソードですね。
ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は三塔の中で最も古く、そのせいか背が低い。なので、見落としてしまいました。また、クィーンやキングよりもごてごてした、装飾もその2つと異なっていたため見落としてしまったのかもしれません。
昔のビルたち
テナントがせわしなく入れ替わるビルもあれば、街のシンボルとなるものもあるビル。あの四角い建物の中にどんな事務所や事業所、会社が入っていて、どんな人たちが働いているのか?
横浜に立っているビルたちは、想像力を掻き立てる美しいものが立っていました。
伊勢佐木町の不二家
伊勢佐木町にはペコちゃんで有名な、不二家があります。その不二家は、はめ込まれたガラスブロックが特徴的な、洒落たビルの中にあります。
ここの不二家横浜センター店は不二家の第1号店と言われています。もともとは元町が創業の地で繁盛し始め、大正11年に伊勢佐木町に、翌年の大正12年に東京・銀座にそれぞれ支店を出店したのですが、関東大震災によって3店ともすべて被災。
伊勢佐木町と銀座店がバラックを建てて再開します。伊勢佐木町は喫茶店として、銀座はレストランとして復興しました。
この不二家ビルはチェコ出身のアントニン・レーモンドが設計し、1937年に竣工されたもので、今でもおしゃれに感じるのですから、当時は最先端でモダンな建築でした。レーモンド氏は帝国ホテル建設のため来日。
帝国ホテルが完成した後も日本に留まり、日本に数多くのモダン建築を残しました。この不二家ビルは戦前のレーモンド氏の数少ない商業施設で、現存しているものは珍しいそうです。
横浜貿易協会ビル
歴史が染みついているのか、海岸通りにあるから潮風でそうなってしまったのか。横浜貿易協会ビルはレトロな雰囲気漂う、くすんだ黄色のような壁の色をしています。
横浜貿易協会ビルの大きな特徴はこの壁の色。スクラッチ・タイルという細い溝が模様となっているタイルが張ってあります。これはこのビルが建てられた昭和初期に好んで使われ、当時の建築物にはよく見られる特徴です。
ビルというと、四角いというイメージがありますが、このビルはL字状に建てられています。道路沿いには規律正しく、1列に窓が並んでいるのも目を引きます。
1929年、昭和4年にコンクリート3階建ての建物として竣工し、今は1・2階に北欧料理レストラン「スカンディア」。また1階にはほかにもテナントが入っています。もちろん3階は横浜貿易協会の事務所があります。
ジャパン・エキスプレスビルと横浜海洋会館
横浜貿易協会を正面に立って向かって右側、横浜大桟橋の近くに「ジャパン・エキスプレスビル」が建っています。竣工は1930年の昭和5年。よって、横浜貿易協会と同じ時期に建てられています。
外観には同じようなタイル張り。しかし、サーモンピンクのような淡く優しい色合いが、サンタモニカあたりにあっても馴染んでしまうようにも感じ、このビルだけバカンス感が漂っています。
このビルは旅行会社の自社ビルで、今でもその事務所があるようです。(中にまで入る勇気ありませんでした。)だからなのか、横浜大桟橋の横に建設されたのも納得します。ここから海外に渡航するのは便利ですから。
くすんでしまった感じがするのは、港から空港に時代が移り変わった名残かもしれません。
施工は三木組、設計は川崎鉄三氏。この設計士の方は横浜市で活躍された方で、後にまた出てきます。
〒231-0002 神奈川県横浜市中区中区海岸通1丁目 ジャパンエキスプレスビル
横浜貿易協会を左側にずっと歩いていくと、横浜海洋会館が見えてきます。このビルはもともと大倉商事の横浜出張所として建てられました。竣工は1929年の昭和4年。横浜貿易協会のビルと同時期に建てられています。そして、共通点として外観のスクラッチ・タイルも似ています。
それもそのはず、この横浜海洋会館は横浜貿易協会と同じ施工と設計なのです。大手ゼネコン大成建設の前身となる大倉土木株式会社が建てたビルです。
今ではクアラルンプール国際空港やボスポラス海峡横断鉄道トンネルを施工している、日本を代表する大手ゼネコンの初期作品を、今でも見られることが感慨深いです。
インペリアルビル
神奈川県立県民ホールの裏手に、直線的で今の感覚でも古いと感じないビルがあります。両隣のビルにもすんなりと馴染んでいるこのインペリアルビルは、外国人専用の長期滞在型アパートメントホテルとして、なんと昭和5年に竣工されました。
このビルは先にも紹介した川崎鉄三氏が設計しました。あのジャパン・エクスプレスビルを設計した方です。このインペリアルビルは、関東大震災の復興建築として建てられたもので、当時の最先端の耐震技術を取り入れ、関東大震災の地震に耐えられるように設計されているそうです。
このインペリアルビルが今回最も心を惹かれた建物で、華奢な直線に洗練された雰囲気がなんとも言えません。ビル内にはギャラリーなどのテナントが入っています。
〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町25−2
山手の洋館
横浜観光のオーソドックスなプランの1つ、洋館巡り。洋館というと、日本に初めて来た外国人達が優雅に生活してた場所。と思ってしまいますが、本当にそうでした。
洋館は現代の生活とかけ離れている部分があるので、ちょっと非現実的で、優雅な気分になれます。
山手111番館
赤屋根に白い壁。女の子なら幼いころ、こんなお家に住みたいと願ったはず。それを体現している家が、山手111番館になると思います。
玄関の前に庭がある山手111番館は、分譲住宅で人気のスペイン建築。こう見ると、山手111番館は日本人の憧れの家なのかもしれません。アメリカ人ラフィン氏の住宅として大正15年に建設され、設計はベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガン氏です。
1階には吹き抜けホールになっていて、今ではミニコンサートが行われているそうです。天井をぶち抜いた家を見ると、一般家庭では無理だなと思ってしまいました。
不思議に感じたのが、この玄関。日本は靴を脱ぐ文化があるせいか、玄関を開けると三和土があります。しかし、山手111番館は玄関を入るとすぐに小さな部屋があり、コート掛けがありました。
海外では玄関の扉を入るとすぐ部屋だと思うのですが、この小さな空間は設計士の心遣いなのかもしれません。
山手234番館
武田泰淳のエッセイに「いりみだれた散歩」という作品があります。その作品は高井戸の公団住宅の生活について書かれたもので、その公団住宅には商売に失敗したアメリカ人と日本人の夫婦が住んでおり、日本人の妻のお陰でこの公団住宅に住んでいるという件が出てきます。
今でも外国人が日本で不動産を借りるのは苦労するといいますが、この山手234番館は昭和2年に外国人向けの4住戸からなる共同住宅(アパートメント)として、関東大震災の復興建築の一環として建てられました。
玄関のパルテノン神殿のような柱が、なんとも荘重とした様子があります。
建設当初はアパートなので4つの同一の形の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで左右対称の3LDK間取りで、上下重なる構成をしていたようです。1980年ごろまで外国人向けアパートメントして使用されていました。
1階のリビング部分。訪れた日は人形作家の展示イベントをやっていました。山手234番館の2階部分はギャラリー展示や会議室として利用できます。
リビングの奥に行くと、台所と部屋が個室が3つ並んでいます。廊下には山手234番地の歴史がパネル展示されています。アパートメントとして建てられたわけですが、日本のように玄関のようなものがないので、住戸の境目がわからず、寮のような印象がありました。
山手234番館の道路を挟んですぐ目の前に、公衆電話があり、集合住宅の名残を感じました。
おわりに
横浜には遠い日に日本に持ち込まれた、遠い異国の残り香が街角に残っていますが、それ以外にも歌が聞こえてくるような気がします。
今回、著者が口ずさんだ歌が分かった方は、その歌をスナックで歌えば受けがよくなると思います。