美しすぎる「ミロゴイ墓地」で、思わず涙が流れました。
クロアチア

こんにちは、ライターの新田です。
今回は6年前に訪れた、ヨーロッパ指折りの美しい墓地、ミロゴイ墓地を紹介します。ミロゴイ墓地はクロアチアの首都ザグレブにあります。ここで、私はうっすらと涙が流れました。なぜ、涙が流れたのでしょうか? それでは、早速見ていくことにしましょう。

そもそも、なぜミロゴイ墓地を訪れたか?

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まずは、なぜクロアチアに、なぜミロゴイ墓地を訪れたか、その理由から説明しましょう。今から6年前の9月、私は大学院の1回生でした。私は旧ユーゴスラビアにおける歴史と政治の関連性に興味がありましたが、なかなか研究テーマを絞れずにいました。
 
そこで、夏休みを利用してクロアチアの様々なスポットを訪れたのです。あるとき、ミロゴイ墓地に第二次世界大戦に関連するモニュメントがある、という情報を入手しました。「ミロゴイに行けば、何かあるかも……」そのような藁にもすがるような気持ちでミロゴイ墓地を訪れたのです。

ザグレブ旧市街からバスで20分ほど


ミロゴイ墓地へはザグレブのラウンドマークとなっている聖母被昇天大聖堂前のバス停から106系統のバスに乗り込みます。20分ほど乗ると、バス停「ミロゴイ」に到着します。バス停の右側にある宮殿のような建物がミロゴイ墓地です。
 
19世紀、ミロゴイ墓地にはクロアチア語を確立した言語学者、リュデヴィト・ガイの別荘がありました。彼の死後、ザグレブ市が買い取る形で墓地にしたのです。
 
その日は9月にも関わらず、30度を超す暑い日でした。しかし、宮殿の廊下に立っていますと「スーッ」と心地よい風を肌で感じるのです。思わず、宮殿内でのんびりしそうになりましたが、意を決してミロゴイ墓地を探索することにしました。

巨大な墓、フラーニョ・トゥジマン博士の墓


まずは、ミロゴイ墓地の地図を確認することに。地図は簡単に見つけることができましたが、あまり丁寧に書かれていませんでした。「どうにかなるだろう」という軽い気持ちで、墓地散策をスタートしたのです。
 
ミロゴイ墓地に限らずですが、ヨーロッパの墓地は公園のように整備されており、本当に気持ちいいです。「日本の墓地もヨーロッパのようになればいいのに……」と思ってしまいます。
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しばらく歩いていると、巨大な石光りの墓が突如、登場しました。あまりにも存在感があるので、思わず仰け反りそうになりました。黒い墓石の文字を見ると、大きく「Dr. FRANJO TUĐMAN」と書かれていました。そうです、これはクロアチア共和国、初代大統領トゥジマン氏のお墓だったのです。
 
トゥジマンは1922年、クロアチアで生まれました。パルチザン部隊の一員として活躍し、戦後に成立した旧ユーゴスラビアでも軍の高官にいました。しかし、クロアチアの自治をめぐって指導者のチトーと対立。軍から追放された後は、歴史家として旧ユーゴと対立関係にありました。
 
旧ユーゴが弱体化した1980年代後半から再び表舞台に登場し、1990年にクロアチア共和国の初代大統領に就任しました。強力なリーダーシップでクロアチアを独立に導いた一方、国内に住むセルビア人への不寛容な姿勢、ボスニア紛争への介入、権威主義的な姿勢は内外から批判を浴びました。
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1999年、大統領在任中に病気のため死去。現在、クロアチアではトゥジマンは英雄視されています。私は、歴史家から大統領に就任したトゥジマンの人生に学部時代から興味を持っていました。そのため、トゥジマンの墓を見たときは、何ともいえない気分になったのです。
 
墓に向かって礼をしたかどうかは覚えていません。とにかく、ド迫力な雰囲気に圧倒されたことを覚えています。きっと、生身のトゥジマンも、ものすごいオーラのある政治家だったのでしょう。

ブライブルク事件のモニュメントを見て思わず涙が流れる


しばらく園内を歩いていると、第二次世界大戦のモニュメントが集まるゾーンにきました。少し開けたような感じになっており、独特の雰囲気を醸し出しています。そこで、私は何ともいえない哀しい顔が集まったモニュメントを発見しました。よく観察するとそこには「Bleiburg(ブライブルク)」という文字がありました。

ブライブルク事件とは?

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このモニュメントは第二次世界大戦後に起きた「ブライブルク事件」を記したモニュメントです。第二次世界大戦、クロアチアは傀儡国家「クロアチア独立国」としてナチス・ドイツチームに入っていました。チトー率いるパルチザン部隊はクロアチア独立国と戦ったのです。
 
最終的にパルチザン部隊がクロアチア独立国に勝利し、チトーはユーゴスラビアを建国しました。ブライブルク事件は第二次世界大戦直後に起きた事件です。
 
戦後、負けたクロアチア独立国の兵士は亡命するために、隣国のオーストリアへ向かっていました。しかし、オーストリアの町、ブライブルクで足止めをくらい、ユーゴスラビアに強制送還されたのです。パルチザン部隊は強制送還された兵士を殺害しました。

戦争に利用された「ブライブルク事件」

旧ユーゴ時代はブライブルク事件を公で論じることは厳しく禁じられていました。しかし、人々の間では噂として広まっていきます。そして、1980年代末期になると、クロアチアとセルビアとの対立が激化しました。
 
クロアチアは「ブライブルク事件」というパンドラの箱を開け、「クロアチアは長年いじめられてきた! 今こそ、防衛しないとまた殺される!」といったプロパガンダを利用したのです。こうして、クロアチアとセルビアは本格的な戦争へと突入することになるのです。
 
このような経緯を私は知っていたので、モニュメントの前に呆然と立ち尽くしていました。モニュメントの下には「1994」と書かれていました。1994年というと、クロアチアとセルビアとの対立が続いているときです。おそらく、国威発揚のためにモニュメントが建設されたのでしょう。
 
「なぜ、人間は歴史を利用して同じ過ちを繰り返すのか……」そのような虚しい思いから、少しだけ涙が出ました。そうして、他にも戦争に関する博物館やモニュメントを訪れ、研究テーマを固めていきました。
 
クロアチアを始めとする旧ユーゴスラビア諸国は美しい景色の多い魅力的な国です。しかし、その裏には悲しい歴史があります。そのような歴史をたどりながら、旅をするのもいいのではないでしょうか。

ミゴロイ墓地

記憶を手がかりにした新しい旅 

近年、戦争の記憶と現代政治を結びつけたテーマが流行っています。それだけ、戦争の記憶はいつまでも人々の心に残るのでしょう。それを具現化したのがモニュメントや博物館です。「どのように過去の戦争が記憶されているか」そのような観点から展示物を見ると、新たな知見が得られることでしょう。もしかすると、身近な相手と接する際のヒントになるかもしれません。

この記事を書いた人

新田浩之

新田浩之鉄道&中東欧旅行研究家

1987年生まれ。神戸市在住。専門は鉄道と中東欧です。国内では鉄道系イベントの取材、国外では中欧、東欧、ロシアの歴史スポットを訪ね歩いています。

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