社会の授業で必ず習う! 長篠・設楽原の戦いの跡地を巡ってきました。復元馬防柵(ばぼうさく)や資料館、陣地跡など、教科書だけでは学べない歴史を感じられます。
長篠城址へ
長篠城を包囲した武田勝頼軍に対して、援軍を派遣した織田軍・徳川軍。大決戦地となった、長篠・設楽原。まずは包囲戦の跡地、愛知県の長篠城址へ。
▲JR長篠城駅
駅までお城風! ルートによっては1駅隣の鳥居駅利用でも良いのですが、今回は長篠城で降車しました。JR長篠城駅は無人駅です。降りる際は車掌さんに乗車券と切符を渡します。処理に時間が掛かるため、ICカードでの乗車は避けたほうが無難かも。
▲長篠マップ
駅から出ると目の前にマップと案内板がありました。道なりに進むと遊歩道への分岐があります。武田勝頼本陣跡、医王寺へは、登って約0.8km。坂が、足腰にきますね……。運動不足解消にぴったりです。
▲大手門趾
駅から長篠城址史跡保存館へ通じる道には搦手門趾、大手門趾があります。電柱や畑と同化しそうなほど自然にあります。それでも残っている跡を見ると、確実にこの場所にはお城があり、確実にこの場で生活しており、当時の遺恨も遺跡も残っているように思えます。
▲長篠城址史跡保存館
駐車場完備です。マップや資料が豊富に揃っています。長篠城址史跡保存館のパンフレットは、この後訪れる設楽原歴史資料館と共通になっていました。資料は驚くほど詳細に記載されています。
例えば、合戦当時の将士年齢まで記載されているのです! 資料によると将士の中で最年少は、籠城軍・松平伊晶。なんと16歳! 時代とはいえ、自分は16歳の時何をしていただろう……と衝撃を受けました。
武田軍の平均年齢は40~50代、重臣は60代! 一方、織田・徳川連合軍は20~30代(織田信長は42歳)です。世代交代の戦いでもあったのでしょうか。
さて、保存館内は、武田信玄の雄図、鉄砲、文献、槍、甲冑、模型など、展示スペースはこじんまりとしていますが、所狭しと展示されていました。
▲軍旗と肖像画
始まりは武田信玄の雄図から。撮影も可能となっていました。写メを撮ると音が響きます……。デジカメ持参でじっくり撮影する方が良いでしょう。
ところで、長篠城址史跡保存館への看板を始め様々な看板に掲げられている鳥居強右衛門のこの姿。館内のいたるところに強右衛門のエピソードが交えられていますが、「鳥居強右衛門の勇気」コーナーは必見です!
軽くエピソードを紹介すると、鳥居強右衛門は城主ではなくその家臣。長篠城が落城間近に迫った際に織田信長・徳川家康へ救援を請うため岡崎に向かい無事に援軍依頼の伝達を済ませます。
しかし、帰城時に武田軍に捕らえられてしまい「長篠城に向かって“援軍は来ない”と言えば命は助けてやる」と取り引きを持ちかけられました。強右衛門は「援軍は来る!」と叫んだためにはりつけにされて処刑されてしまったのです。
その雄姿をたたえ、長篠のシンボルにもなっている様です。味方に援軍が来ることを伝えた場所は、保存館の外にある回廊から見ることができます。展示物への移動通路となっている場所には木彫りの家紋も展示されていました。
▲長篠城址
本丸跡はすぐそばです。だだっ広い空き地のようですが、奥まで行くべし! 宇連川の向こう岸の山には武田軍5つの砦が見えるようになっています。
▲内堀
駐車場からすぐです。
▲橋の上から櫓跡
宇連川と豊川との交差地点。長篠城で検索するとよく出てくるこの地の画像ですが、下調べせず徒歩で行ったため20分以上彷徨いました!
長篠城址史跡資料館からは鳥居強右衛門磔死の跡を目指し、それから鳶ヶ巣山へ登るルート途中の橋から見ることができます。どちらも駐車場はありませんが、停めるスペースはあるので安全確認の上撮影はできそうです。
とても綺麗です。が、この場でにらみ合いとなりその後大決戦へと続いていったのですね。
〒441-1634 愛知県新城市長篠字市場22-1
午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日
毎週火曜日(火曜日が休日の場合は次の平日が休館)
年末年始(12月29日から1月3日)
設楽原へ
▲ルートマップ
こちらの周辺を実際に歩くことで、距離感や地形が見えてきます。
▲設楽原歴史資料館
JR三河東郷駅から徒歩15分。大河ドラマ おんな城主直虎ダイジェスト展が開催されていました。入り口には「井伊家ゆかりの地」の旗がなびいています。
戦闘に関する展示の他にも、鎮魂の祭り「ひおんどり」に関する映像・パネル展示、火縄銃に関する展示などがあります。特に火縄銃の展示は数も種類も豊富で、見応えがあります。明治維新後に使用された長さ3.32m、重量72kgの大鉄砲は、もはや大砲。どのように担いだのかわからない程で圧巻でした。
時代劇でも見かける一般にイメージされる火縄銃ですが、1つだけ手に取ることができるようになっています。
それでもずしっと重みを感じました。銃を担いで移動するだけでも体力勝負です。
展示を一通り見ると、端にあるエレベーターで屋上に上がることができます。屋上からは合戦地や本陣跡を見渡すことができます。復元された馬防柵も、遠くに見ることができました。また、地形を再現するように凹凸がありました。平面展示だけでなく遊びごごろがあって面白いです。
▲復元馬防柵
資料館から徒歩で約10分。車では数分。合戦屏風や教科書・資料集で必ず出てくる柵! 復元馬防柵は、連吾川に向かって建てられています。駐車場とまでは整備されていませんが、タイヤの跡があり、車を止めるスペースとなっているようでした。
馬防柵は、織田軍のものと徳川軍のものとで攻口が異なるところまで再現されていました。再現されていたのは一部ですが、実際はこの柵が見える範囲を悠に超えるまで続いていたはず。人の身長以上のもの木を大量に運び三段構えに設置するなど、大掛かりな土木工事ではないでしょうか。
田園風景ですが、この近辺で鉄砲玉が出土しています。
▲信玄塚
戦場の片付けに従事した村人によって戦死者を埋葬した塚は2つ築かれます。当時すでに亡くなっていた信玄の名を取り「信玄塚」と呼ぶようになったのは諸説あり不明ですが、信玄の名がいかに偉大であったかを物語っています。
地名に知っている歴代偉人の名が付いている場所とは何とも不思議です。自分の名が後世に残るような……そんな人物になれれば良いな、と感じる旅でした。
設楽原歴史資料館