成田山新勝寺は不動明王を本尊とする真言宗の寺院で、全国的に有名な寺院です。
初詣スポットとして成田山と同様に人気スポットである神田明神ですが、詳しく調べてみると意外な関係であることがわかりました。ひょっとすると成田山にお参りした人は神田明神にお参りすることは避けた方がいいのかもしれません。
初詣客数全国二位の成田山
毎年の初詣においては明治神宮に次ぐ全国第2位の初詣客数を誇る成田山。あの長嶋茂雄氏も毎年こちらにお参りするそうです。
正月三が日の期間、江戸時代の街並みを思わせる成田山の参道は初詣客で埋め尽くされることになります。
成田山周辺は先の大戦における空襲被害がほとんどなかったため、江戸時代の建築物も良好な状態で残されており、仁王門や釈迦堂など5棟が国の重要文化財に指定されています。
成田山を繁栄に導いた市川家との関係
平将門の乱鎮定を祈願して平安時代に創建された成田山は戦国時代の混乱の中で寂れてしまいますが、江戸時代になって思わぬ形で繁栄します。
成田山の近くの出身であった歌舞伎の初代市川團十郎は、子宝に恵まれなかったためこちらで子授けを祈願したところめでたく長男を授かりました。
初代團十郎はこれに感謝して不動明王をテーマにした歌舞伎を演じたところ、これが大ヒットします。
その後も市川團十郎は成田山を扱った芝居を上演し続け、これにより成田山は江戸庶民に人気の寺院となったのです。
成田山の豆まきに「風と雲と虹と」出演者が不参加だった理由
2月3日の節分においては大河ドラマの出演者と大相撲の力士が豆まきに参加することで知られており、2017年は新横綱だった稀勢の里も参加しました。
しかし、昭和51年に放映された「風と雲と虹と」の出演者だけは参加していません。「風と雲と虹と」は平将門を主人公とするドラマだったため、将門追討を目的に創建された寺院のイベントに参加することははばかられたようです。
平安時代に下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争が、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進んだのが「平将門の乱」と呼ばれる承平・天慶の乱です。
将門は乱の中で国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称しますが、そのことによって朝敵となり、その後わずか2か月たらずで討伐されてしまいました。
日本三大怨霊の1つである平将門
将門は崇徳天皇、菅原道真と並び、非業の死を遂げた日本三大怨霊の1つとされています。京都で晒されていた首は3日後に空高く舞い上がり、その首が落ちたとされる場所が大手町にある将門塚です。
皇居近くで進行中の再開発工事。その建設現場の一角にうっそうと木が繁る空間が食い込んで区画が凹型になっている場所があります。
これさえなければ綺麗な地型になるのですから、超一等地になんでこんなものを残したのだろうと感じるような光景ですが、これこそが将門の首塚と呼ばれる将門塚なのです。
現代のスーパーゼネコンもビビる将門の怨霊
もともとこの地は神田明神が創建された場所でしたが、神社が現在の地に移転した後は大名屋敷となりました。首塚はそのまま屋敷内に残り、明治になって大蔵省の庁舎が建てられても敷地内に残りました。
関東大震災で首塚は倒壊し、大蔵省はその上に仮庁舎を建設したのですが、その結果誕生したのが「首塚を粗末に扱うと祟る」という伝説です。
2年の間に大臣を始めとする14人もの関係者が病死した大蔵省は仮庁舎を取り壊して首塚を復元します。それでも落雷により庁舎が全焼してしまったため、今度は鎮魂祭を盛大に行って塚に「故蹟保存碑」を建立せざるを得ませんでした。
首塚に隣接した地にビルを建てた日本長期信用銀行においても行員が次々と病気になり、最後は銀行そのものが破綻してしまいます。
その後も周辺には次々とビルが建てられますが、「単なる迷信」と軽んじて工事に臨んだ現場では事故が続発したことから、現在行われている大規模開発においても通常ではありえない程の配慮がなされています。
工事中は塚を防護ケースでカバーし、更にその上を防護ネットで保護しています。将門の魂は現代のスーパーゼネコンをもビビらせてしまったようです。
千代田区大手町1-2-1
成田山と神田明神の意外な関係とは
様々な経緯を経て将門の首塚は現在まで残りました。「荒ぶる神は願い事も叶う」ということでお参りする人の数は多いようです。
将門を「中央の圧政に抵抗し、弱きを助け強きを挫く地元の勇者」と評価する人は多く、神田明神ではだいこく様とえびす様に加えて将門を御祭神として祀っています。
初詣スポットとして成田山と同様に人気スポットである神田明神ですが、詳しく調べてみると意外な関係であることがわかりました。ひょっとすると成田山にお参りした人は神田明神にお参りすることは避けた方がいいのかもしれません。