川越は江戸の面影を残す「小江戸」として人気のスポット。その川越が持つもう一つの顔にせまってみます。
観光客が途絶えない「小江戸川越」
川越といえば「小江戸」。江戸時代、川越藩は常に親藩や譜代など将軍家に特に信頼の厚い重臣たちの治める町として栄えました。「時の鐘」は1627年から1634年にかけて、酒井忠勝によって作られました。その後、火事によって焼失し、現在の「時の鐘」は1893年に再建されたものです。酒井忠勝は徳川家光に特に厚い信頼を得ていた家臣です。
川越は幕府の信任厚い重臣たちの所領として栄えました。
いつ行っても人であふれているのが、菓子屋横丁。ここでは手軽に買える駄菓子のほか、川越の名物ともいえるサツマイモを使ったお菓子なども売られています。
川越のスイーツといえばサツマイモです。1700年代、川越地域でサツマイモの栽培が始まります。そして、1700年代後半に江戸でサツマイモスイーツが大流行! 江戸に近く、水運が発達している川越産のサツマイモが江戸に大量に運ばれて、江戸の庶民の間では「サツマイモ=川越」というイメージが定着したのだとか。
明治時代に入ると、川越は江戸時代から続く水運に加えて、鉄道も開通し、ますます栄えます。大火を経て、火事に強い蔵造の建物が増えるのもこの時期です。
廃藩置県により最終的に埼玉県になった川越。埼玉の要の都市として1922年に埼玉県初の「市」となります。川越の「大正浪漫夢通り」にはそのころの建物と街並みが残っています。
もう一つの「かわごえ物語」
もうひとつの「かわごえ」つまり河越は入間川を越えた先にあります。
時は平安時代後期。高貴な家の子供には乳母がつけられましたが、当時の乳母は夫と共に養い君の教育全般を任せられていました。なので、高貴な出身の人にとっては乳母夫婦は実の両親以上の存在、乳母の子は特別な臣下でした。
初めて幕府を開いた源頼朝。彼の乳母の名前は「比企尼」。比企尼には三人の娘がいました。比企尼は頼朝が伊豆に流されていた20年間ずっと頼朝を援助し続けます。頼朝が将軍になると、比企尼の三人の娘婿たちはすべて頼朝の重臣となります。その一人が「河越重頼」でした。
河越重頼は武蔵国の豪族で、秩父一族のリーダー的な存在でした。源頼朝に長男・源頼家が生まれると、頼家の「乳人」となります。さらに、源義経と頼朝との仲がぎくしゃくしてくると、頼朝は河越重頼の娘に義経の妻になるよう命じ京都に送り出します。
京都に向かった河越重頼の娘・郷御前は当時16歳。その後、義経と頼朝の対立は決定的なものとなります。都を落ちる源義経。彼が連れて行ったのは京の白拍子、静。静御前と呼ばれる義経の愛人は、今でいうアイドルみたいなものでした。そんな愛人を連れて京を出ていく夫を見送る郷御前の腕には生まれて間もない赤ちゃんが抱かれていました。
夫につくか、主君(源頼朝)につくかの決定を迫られた郷御前。彼女は夫を選びます。夫が目指す奥州(東北)に向かいます。それは主君である鎌倉殿(源頼朝)を裏切る行為でした。1189年、義経そして4歳になる娘とともに22歳で亡くなります。彼女の行動は幕府側からみたら裏切り行為でした。この件で、郷御前の父親である河越重頼と跡継ぎである兄重房は領地没収の上死刑となります。
こうして、秩父一族のリーダー的存在である河越氏は歴史の舞台から姿を消します。「河越館跡」が残されています。広大な敷地にたてられていた河越館。今は広い野原に「ここに台所があった」「ここで〇〇が行われた」など、発掘調査でわかった当時の暮らしのかけらを読むことができます。
室町時代に入り、上杉家の家臣太田道灌父子が今の川越の位置に川越城を築き、小田原北条氏によって川越城周辺に城下町が形成され「かわごえ」は河越から川越に移り変わっていくのでした。