0泊3日で関東から岩手県・平泉を駆け巡り、大量に御朱印をいただく旅
日本

今回は世界遺産の街であり、芭蕉が有名な句を残した場所でもある平泉をご紹介します。

神社や寺院をまわって御朱印を頂くことを趣味としている私にとって、中尊寺金色堂のある平泉は伊勢と並んでいつか行きたいと思っていた場所です。往復夜行バスを利用して0泊3日で行ってみた熱田神宮と伊勢神宮周辺の旅が衝撃的に安上がりだったため、その第2弾として行ってみることにしました。

そうは言っても岩手県の南部に位置する平泉への直行便はありません。そのため一旦盛岡まで行き、そこから約1時間半かけて東北線で移動することにします。

百年続いた栄華の後に朽ち果てて埋もれた平泉

平泉は平安時代末期に奥州藤原氏の拠点として大変に繁栄した街です。

初代の清衡はこの地で30年以上続いた戦乱における全ての戦死者の霊を慰め、この地に極楽浄土を再現することにより、恒久平和を実現しようとして1105年に中尊寺を開きました。

第2代基衡および第3代秀衡が壮大な伽藍を整備した毛越寺もまた極楽浄土を地上に表現したもので、規模としては中尊寺以上でした。

そのため源頼朝に追われて居場所がなくなった義経は秀衡を頼って平泉に落ち延び、逆に秀衡は鎌倉と対抗する切り札として義経を考えていたようです。

しかし秀衡が死ぬと、子の泰衡は頼朝の圧迫に耐えかねて義経を討ちます。それでも義経をかくまったという事で泰衡は頼朝の追討を受け、その混乱の中で家臣に殺されて奥州藤原氏は僅か100年で滅亡しました。

その後、中尊寺、毛越寺の栄華を誇った寺院なども度重なる火災により荒廃が進みます。恒久平和を目指し、最盛期には京都に匹敵するほど繁栄したしていた平泉ですが、当代無双と云われた寺院などもほとんどが朽ち果てて夏草の下に埋れてしまいました。

奥州藤原氏滅亡の500年後に平泉を訪れた松尾芭蕉はすっかり荒廃してしまった平泉の姿を一望し、有名な句を残しています。

戦後になって進められた発掘調査により、奥州藤原氏全盛時代の時代の遺跡群がほぼ完全な状態で残されていることが判明し、そのため遺跡群の内の5件がユネスコ世界文化遺産に登録されました。

恒久平和の実現を目指した中尊寺

夜行バスは朝6時ごろ盛岡に到着するため、6:38発東北線一ノ関行に乗って8:03に平泉に到着しました。

平泉は徒歩圏内に世界遺産に登録された遺跡が5カ所もある歴史のある街です。(今回ご紹介する場所には赤線を引いています)


中尊寺は県道300号線から丘陵を上る月見坂にそって諸堂が並んでいます。

奥州藤原氏滅亡後も中尊寺は源頼朝の保護を受けます。1288年に金色堂の修理が実施され、この時設けられた覆堂(おおいどう)は、昭和37年(1962年)まで金色堂を風雨から守り続けました。

朝からの雨が強くなったため、今では重要文化財となっている旧覆堂の中で雨宿りという貴重な経験ができました。

1337年発生した火災により、中尊寺は金色堂を除きほぼ全焼してしまいます。そのため当初の姿で残っているのは金色堂と旧覆堂だけで、その他の建物は中尊寺が伊達家の保護下となった江戸時代以降に再建されたものです。

昭和37年に傷みが激しくなった金色堂で初めて解体修理が実施され、創建当初の輝きを取り戻すとともに、鉄筋コンクリート造で防災防湿に万全の備えをした新覆堂が設けられました。新覆堂の内部は撮影禁止です。

芭蕉が有名な句を残した高館義経堂

1189年4月30日に奥州藤原氏第4代泰衡が頼朝の圧迫に耐えかねて義経を急襲し、敗れた義経は妻子とともに自害しました。

1683年に仙台藩主第4代伊達綱村が義経を偲んで終焉の地に建てたのが高館義経堂(たかだちぎけいどう)です。

義経堂では義経の木造を安置しています。

1689年に松尾芭蕉は奥の細道の旅の途中で平泉に立ち寄りました。まず高館の丘陵に登り、眼下に広がる茫洋とした風景を見て詠んだ句が、有名な「夏草や兵どもが夢の跡」です。

高館義経堂では芭蕉がその時場所が見たであろう光景を、今でも見ることができます。

極楽浄土の姿を地上に表現した毛越寺


毛越寺は奥州藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が整備されました。


堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのいで「吾朝無双」と評されるほどの規模と華麗さであったといわれています。

「曲水の宴」の舞台となる遺水は奈良の宮跡庭園以外では例の無かったもので、発掘調査中に完全な形で発見されました。

奥州藤原氏が滅亡して以降、度重なる火災で全ての建物が消失しましたが、浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。そのため国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。

優美さと簡素さを併せ持つ観自在王院跡

観自在王院は藤原基衡の妻によって毛越寺に隣接して建立された寺院ですが、火災により焼失し、その後は荒廃して水田となっていました。

昭和に入ってからの修復事業により、優美ではありながらも簡素である庭園が復元され、国の名勝に指定されています。

中尊寺や毛越寺と同様に、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。

清水の舞台を模した達谷窟屋毘沙門堂


約1200年前、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷の反乱を鎮定した際、戦勝を毘沙門天のご加護のおかげと感じた田村麻呂が京都の清水の舞台に似せたお堂を建てて窟毘沙門堂と名付けました。

毘沙門堂はこれまで度々火災による焼失と再建を繰り返しており、現在の建物は昭和36年に再建された五代目となります。

世界遺産委員会の審議の過程で一旦除外された史跡で、将来における拡大登録を目指しています。

坂上田村麻呂の征討以後蝦夷の反乱は終息に向かい、帰順した蝦夷は俘囚と呼ばれるようになります。その俘囚と朝廷の間のトラブルからこの地で30年以上続く戦乱が発生し、その結果この地に奥州藤原氏という巨大な地方勢力が誕生するのです。

窟毘沙門堂のある岩壁には摩崖仏が刻まれており、奥州藤原氏の時代には有力な寺院であったことが推測されています。

中尊寺で御朱印を頂く際の注意点

御朱印所は11カ所あり、頂ける御朱印は全13体


中尊寺では下線を引いたお堂で御朱印を頂くことができます。赤線のお堂は御朱印帳への直書きで、青線は書置きです。この中の経蔵の御朱印は弁財天堂の御朱印所で頂きます。また地蔵堂の御朱印所の裏に道祖神の祠があり、こちらの御朱印も頂くことができます。

金色堂の御朱印所で 購入した御朱印帳にのみ、見開き御朱印が頂ける


それ以外の御朱印帳には普通サイズの御朱印になります。見開き御朱印を希望される場合はまず金色堂に行きましょう。

御朱印所が閉まっていることもある

私がお参りした際は11カ所の御朱印所の内3カ所閉まっていました。担当が一人しかいないところもあるようで、その人が休めば御朱印所は閉まったままです。その場合は潔くあきらめましょう。

数が多いのでかなりの出費になる(何と境内にATMがある!)

御朱印の数が多いため、御朱印帳と合わせるとかなりの出費になるので注意してください。

中尊寺周辺に金融機関はありませんが金色堂に隣接した讃衡蔵にATMがあります。

0泊3日でこれだけのことができる

0泊3日という強行軍ではありますが、この短時間で様々な歴史的建造物を巡り、数多くの御朱印をいただくことができました。体力に余裕のある方は、ぜひ挑戦してみてください。

この記事を書いた人

鶴間正二郎

鶴間正二郎

徳島県出身。いまどきMT車にこだわる車好きだが、鉄道好きでもある。善光寺御開帳の際に御朱印の美しさにはまり、現在各地の寺社をせっせとまわっている。最近では厚木基地に離発着する飛行機の撮影に挑戦を始めた。

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